漂石彷徨



真夜中の稲妻とその残像

下ノ畑ニ居リマス。
岩手県花巻市にある昭和初期の農学校・羅須地人協会には、黒板に書かれた宮沢賢治の文字が残されている。薄くなってくると、係員が上からチョークでなぞっているので、もはや彼の筆跡を留めているとは考え難いが、とりあえず大切に守られている。Camp4のコロンビアボルダーに描かれたライトニングボルトの落書きを見るたびに、この話を思い出してしまう。
チョークで描かれたライトニングボルトの落書きは非常に有名だが、当然のことながら、大きさも、形も、位置も時代によって微妙に異なる。初期の頃は形が歪で、稲妻の光の上下に星が描かれていなかったり下だけだったりする。描線自体が薄く、わずかに判別できる程度の写真もある。「岩と雪」72号(1980年)の写真には、この落書きは写っておらず、私がこの落書きの存在を知ったのは、同誌165号(1994年)の寺島由彦による「ミッドナイトライトニングを登った話」のタイトルに添えられたイラストからだ。Camp4は現在、米国登攀史の重要な舞台として、米国政府から正式な史跡登録を受けており、この落書きも今でこそ暗黙の了解の下で消されることはないが、汚らしいクライマー達がパークレンジャーの目の仇にされていた時代には、描かれたそばから消されていたのかもしれない。

いつ、誰が描き始めたのか。誰もがこうした疑問を抱くにちがいない。ジョン・ロングはある記事の中で、マイク・グラハムがデザインを考案し、その後、著名なサーファーであるジェリー・ロペスによってサーフボードのデザインに使用されたことにより広く知られるようになったと述べているが、映画「ビッグウエンズデー」(1978年公開)にも登場するロペスのデザインは、光の向きが逆であることに加え、稲妻の上下に星がなく、時期もロペスの方がやや早いこともあって、真偽の程は定かではない。
米国のあるウェブサイトにこれと同様の質問が寄せられ、当時を知るワーナー・ブラウンやジョン・バーカーといった人々が、直接回答しているものがあった。
「はっきりとは覚えていないけど、確かヤボじゃなかったかな?当時、奴はあちこちにあの印を描いていたから。」2007年6月10日 ワーナー・ブラウン
「ワーナーの奴、葉っぱのやり過ぎで忘れちまったんだな。あれを最初に描いたのは俺だよ。ヤボが最初にあのラインを見つけて、登れる可能性を確信したのは間違いないが、奴はそれをロンと俺に教えてくれた。俺たちは最初この課題を登れるチャンスは、ジミ・ヘンドリクスの曲にあるように、真夜中に稲妻が走る程度でしかないと考えていた。それで俺がチークであの絵を描いたという訳さ。どうだい?ちょっとは面白い話だろ。」2007年7月27日 ジョン・バーカー

核心部の電光型のホールドは現在、ライトニングボルトホールドと呼ばれている。ホールドの段差の向きは右下に描かれた落書きと一致し、その形状が課題名の由来になったことはほぼ間違いないが、初登者達はラインそのものに対しても、こうしたイメージを重ねていたようだ。その後、この落書きは、赤いバンダナやヒッピー風のファッションと共に彼らのスタイルを象徴するものとなり、80年代初めには中西部のトウモロコシ畑に転がるボルダーにさえ、これを模した落書きが描かれることもあったという。

1978年のある夜、ジョン・ヤブロンスキーがラインを発見し、ジョン・バーカーとロン・カウクの2ヶ月間にわたる試登の末、カウクが初登に成功し、程なくバーカーもこれに続く。ムーヴを固めたバーカーは、やがてサーキットの一部として頻繁にこの課題を登るようになり、Camp4を訪れた世界中のクライマーがその模様を目撃する。戸田直樹、平田紀之らが彼の姿を写真に収めるのは、初登の翌年のことである。
Camp4の多くの課題は、その名称からおおよその初登の年代を推測できる。シュイナードマントル、ベイツプロブレム、ロビンスレイバック、ブルースウェードシューズ(60年代後半に流行したクライミングシューズ「RR」の生地が青いスウェード皮だったことによる命名と思われる。)、コアフェイス、アメントアレート…。これらの課題とミッドナイトライトニングとの明確な違いは、ダイナミックムーブの有無だろう。バーカーはミッドナイトライトニングを登る前年、ジョン・ロングと共にコロラドのジョン・ギルの元を訪れ、大きな影響を受けている。ギルの課題の特徴は、ダイナミックムーブの存在にあり、その時の経験がカウクとのセッションを通じて実を結んだと考えられなくもない。ヤボもまた、80年代初頭までこの課題への挑戦を続けていたようだ。コロラドのスキップ・ガーリンが第3登を果たすまで、更に5年の歳月を要した。1998年にはリン・ヒルが女性としての初登に成功している。
イギリスのショーン・マイルズによる1993年のフラッシュ以来、近年では初見で登る者も少なくないとされ、V8というグレードが持つ記録的価値は薄れて久しいが、ラインそのものの美しさ、名前どおりの鮮烈な印象は、描かれた落書き同様、そこで交錯した様々な人生の軌跡と重なり、初登から31年を経た今も色あせることはない。私もまた、この課題に魅了されたクライマーのひとりだ。

今回の旅は、ジョン・バーカーの訃報がひとつの契機になった。ミッドナイトライトニングに初めて触れてから12年、本格的な挑戦を開始してから既に8年の歳月が経つ。その間、この課題に誘われるようにして何度か海を渡り、カリフォルニアのボルダリングエリアを訪ねる過程で、いつしかジョン・バーカーは、私の中で巨大な存在となっていった。バーカーの課題は、他の課題とはちょっと毛色が違うのだ。多彩なムーヴが存在するだけでなく、精神的にも多くのものが要求される彼の課題からは、初登者の存在を嫌でも意識させられた。そのバーカーが逝ってしまった。
人生には限りがあり、クライミングに割ける時間は更に短い。日々の生活に追われ、緩慢ではあっても確実に忍び寄る老いの前で、目標は気付かぬうちに逃げて行く。一度去った好機は二度と戻らないだろう。焦燥感に駆られた私は、予定の見通しも立たぬまま、航空券を予約していた。

3年振りだが、出だしの動作は記憶に残っていた。無駄な力を使わないためには、できるだけ素早く身体を上げて右手のサイドプルをアンダー気味に引くことが重要になる。左上のフレークを取ったら、左足を右手のスタートホールド、右足を縦方向の段差の上端まで上げてステミングする。身体を充分に引き上げてから、左手でもう一段上のフレークを取り、右手を更に深いアンダーに持ち替えた後、右足を開いて小さなエッジを拾い、真上に跳び出す姿勢を作る。体を振って斜めに跳び出せば、右に振られて剥がされてしまう。背の高い外国人達と同じことをしていたのでは、止められなくて当然だった。ランジではなく、あくまでもデッドポイントを意識し、伸び上がるようにしてライトニングボルトホールドを取りに行く。できれば足は残したい。動作の終わりに足が離れるのは、結果的にそうなるだけだ。

3回目で右手が止まり足も残ったが、次の動作に意識が向かわずそのまま落ちる。4回目は、離れた足を戻そうとして落ちた。いい位置を握り込んで右手で引き付ければ、デッドポイントでも左手を添えることができそうだ。5回目。左足を壁に押し付けながら勢いをつけて左手を寄せ、同時に両手で引き付ける。わずかに振られたものの、剥がされることなく右側の大きなスタンスを拾うことができた。リップで中継した後、下向きの突起状ホールドを右手でつかみ、それを真横に引きながらマントルの体勢に入る。しかしながら、両手の間隔が狭すぎて、うまい具合に左腕を畳むことができない。仕方なくやや高い位置に左手を置いたまま身体を上げて行くと、目の前に最後のホールドが近づいてきた。様々な思いが頭をよぎったが、残りわずか20cm余りのところで右足が抜け、地面に落下した。スポットしてくれた人々の手をわずかに外れて石の上に落ちたが怪我はなかった。

その後、3回同様の失敗を繰り返す。初登者達を苦しめたマントルはやはり厳しかった。左手を順手にして高い位置を押せば、身体を倒す恐怖を回避できるが、身体が上がるにつれて左手が重心を外側に押し出してしまい、あと少しが届かない。無理だ。ここまでできれば、自分には上出来なのかもしれない。8回目。突起状ホールドを下向きに保持しながら身体を倒してチョークアップするが、マントルの体勢を体幹で支えきれずに落ちる。一回毎に息があがり、慣れない動きで大腿筋に張りを覚えた。スタート付近のホールドはいずれも滑らかで、想像以上に筋力を消耗する。やがて2手目で足が滑るようになり、右手のアンダーから左上のフレークにも届かなくなった。悪いイメージを植えつけることはできるだけ避けなければならない。マントルについては、あと1つだけ試してみたいことがあったが、それは翌日に持ち越すことにした。それで駄目なら、諦めるしかない。

翌日1回目。下部は雑になったが、なんとかリップに辿り着く。試してみたかったことは、できるだけリップの下部の外側を真下に押してみることだ。狭い空間で右足を高い位置に上げるため、身体が真横に傾く感覚があり、最後まで右手を離せない。なによりも非常に恐い。だが、不思議なことに、これによって完全に右足に体重が乗り、あっさりと最後のホールドをつかむことができた。前日のように、右下のふくらみでジリジリと震えることもなかった。振り返ってみると、非常に基本的なマントルの動作であることに改めて気づく。最後のホールドは大きいが、スタンスは不安定なままだ。一段上に立ち込んで、ようやく一息つくことができた。木の枝の影になったバンドを左上し、岩の頂に抜ける。
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その日の晩、閉店間際のヨセミテロッジのカフェテリアで、偶然にもロン・カウクと出会った。肩幅の広いがっしりとした体格。長い髪と鋭い目付き。本当に彼だろうか。逡巡する私を見かねた妻が尋ねてみると、やはり本人だった。長年夢見た課題を登れたその日に、その課題の初登者に出会うことなど、めったにあることではない。すっかり舞い上がった私は、ミッドナイトライトニングを登るためにこれまで何度もヨセミテを訪れ、今日ようやく登れたこと、その当日にお目にかかれて大変光栄に思っていることを、拙い英語で何とか伝えた。
「登ったのか?おめでとう!」
彼はそう言って、握手してくれた。指の太い大きな手と、キラキラ光る目が印象的だった。
「そういえば今日の午後、Camp4で誰かの雄叫びを聞いた。あれは君か?」
「いいえ、違います。私は叫ばないので。」
「ともかく、おめでとう。よかったら、君の経験をここに書いて送ってくれ。」
彼はそう言って、テイルズオブパワーを登る彼自身の写真が入った名刺をくれた。

帰国後最初の週末。私は1日がかりで彼に宛てたメールを書いた。彼があそこに居たのはおそらく映画の宣伝が目的で、名刺をくれたのも営業用のリップサービスだったに違いない。だが、書かずにはいられなかった。分量はレポート用紙1枚分もの長さになった。30年前にあの課題を写した写真が現代的なフリークライミングの日本への導入の象徴になったこと。自分自身は15年前に雑誌のバックナンバーでその写真を目にし、1997年に触った時は全く歯が立たなかったこと。2001年秋から真剣な挑戦を始めたこと。2003年の冬の嵐、2004年の秋の降雪、2005年の怪我。仕事や生活環境の変化のために思うようにクライミングができず、体力的な衰えもあって今回がラストチャンスだと思っていたこと。念願がかなった後、妻と共にハーフドームに登りヨセミテの自然の美しさに触れたこと。あの課題を通じて沢山の人達と出会い、沢山の人達とあの課題について語り合うことができたこと。これらを際限なく綴り、素晴らしい課題を遺してくれたこと、出会えたことに対する感謝の言葉で結んだ。

翌日、返信があった。短いが、心のこもった内容だった。
「ご連絡、ありがとうございます。貴方と貴方の奥さんに出会えたこと、そしてヨセミテの美しい自然とミッドナイトライトニングを登るという経験を共有できたことを嬉しく思います。クライミングに対する貴方の感性を大切にして、幸福なクライミングを続けてください。人生をめぐる様々なしがらみから“Free”(自由)でありますように。敬意を込めて。ロン・カウク」

バーカーの死の直後、「The Stone Masters」という写真集が出版された。主な著述、写真提供は、ジョン・ロングとディーン・フィデルマン。70年代のヨセミテを中心とするクライマー達の姿が収められている。バーカーとカウクは、隣に並んで写っていることが多く、一緒におどける姿は、いかにも仲が良さそうだ。
ジョン・シャーマンは「Stone crusade」(1994年)の中で、ミッドナイトライトニングの初登時の模様を、バーカーの回想という形で描写している。「カウクがマントルを返した瞬間、どうせまた駄目だろうと思って見守っていた周りの皆は、呆気にとられて静まり返った。その時、たまたまそこを通りかかったジム・ブリッドウェルが何も知らずにその課題のことについて尋ねた。バーカーは、その質問のあまりの素朴さに驚く。バレーのことなら何でも知っているブリッドウェルでさえ、彼らがこの2ヶ月間、この課題に取り組んできたことを知らなかったからだ。「本当にいい時代だった。」バーカーはほほえみながらそう当時を振り返った。」
だが、この本が出版された頃、彼らの古き良き時代は既に遠い過去のものとなっていた。
80年代半ば以降、米国のクライミング界は大きな転換期を向かえ、彼らもその潮流と無関係ではいられなかった。1988年にはラッペルボルティングの受容の是非をめぐり、バーカーとカウクの訣別は決定的となり、1991年にはヤボが自ら命を絶っている。
ウォーレン・ハーディングはその晩年、長年の諍いを超えてロイヤル・ロビンスと和解している。晩年の彼の病床を見舞ったロビンスらと何事かを語り合い、共に涙を流す姿が見られたという。このような和解の時が、はたしてバーカーとカウクに訪れたかどうか。ヨセミテの原初的な自然に対する深い愛情、先人達の業績に対する敬意等、バーカーとカウクには共通する点が多い。それが故に深い対立につながった面も否定できないが、和解の余地は決して乏しくなかったように思う。7月5日の事故の後、7月末に行われたバーカーの葬儀にはカウクも出席しているが、彼らが和解できていたのかについては定かではない。

クライミングという行為が、無機的な岩塊の上で繰り返される筋細胞の伸縮でしかなく、幾つかの数字だけがその結果を表現するものであるとしたなら、なんと虚しいことだろう。バーカーとカウクの31年を思う時、何故か、私の取るに足りない12年でさえ、それなりに意味のあるものであったと信じたくなる。宮沢賢治は自らの詩を無機的な宇宙に灯る光の明滅に例えた。ある課題を通じて、初登者達の普遍的な経験と、個人的な経験との間のわずかばかりの繋がりを確認することができたならば、チョークで描かれたライトニングボルトでさえ、私にとっては「有機交流電燈のひとつの青い照明」になっていたのかも知れない。
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by tagai3 | 2009-11-07 19:24 | クライミング | Comments(4)
Commented by 月光一号 at 2009-11-09 23:42 x
君に最初に出会ったとき、ぶつぶつと何かをつぶやきながらミッドナイトライトニングの下を歩いていた。あれはきっと課題と対話してたんだろうね。あれから何年経つのだろう?
結実した文を書けるに至った行為がすばらしい。
「しがらみにとらわれないクライミングを」ひとにも自分にもそう言い聞かせてきた言葉が、ロン、カウクの言葉と重なるだけで、出来た行為はともかく考えは間違ってなかった気がする。
もう身体も思うように動かないけどミッドナイトライトニングがあるヨセミテにまた行かねば。
Commented by tagai3 at 2009-11-14 07:44
お読みくださり、ありがとうございました。
月光一号さんに初めてお会いしてからもう8年にもなります。
お会いできたことを含め、かの地は私にとっても、他の多くの方々がそう感じる様に、非常に大切な場所となりました。
Commented by 心動かされました at 2012-04-18 21:40 x
この課題を見たのが18年前。
今から、間に合うだろうか、そう逡巡していた時に、この文章に出会いました。クライマーでなくては解らない、解りようがないこの感性を見事に、率直に描かれていて、目頭が熱くなりました。
Commented by tagai3 at 2012-04-25 22:40
私の文章がどなたかの行動のきっかけになったとしたら、これほど光栄なことはありません。最高の賛辞です。ありがとうございます。どうか良い旅をなさいますように。
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