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漂石彷徨



ヴィースナーのこと

フリッツ・ヴィースナーとは、一体、どういう人物だったのだろうか。著名な人物とされている割には、彼の人生と人柄について日本語で書かれたものは極めて限られている。ざっと見たところでは、次のようなところになる。

「クライミング・フリー」リン・ヒル、グレッグ・チャイルド著・小西敦子訳・2002年光文社
…歩いているとデヴィッドはフリッツ・ヴィースナーが1930年代に初登攀した2つのルートのことを話題にした。
『フリッツ・ヴィースナーって?』と私は訊いた。
『彼を知らないのかい?世界的に有名な登山家だぜ!彼はここで麻のロープとソフトアイアンのピトンをつかって登ったんだ。彼はワイオミングのデヴィルズタワーも初登攀したし、はるか以前の1939年にK2の頂上付近まで行ったんだ!』
私を教育しようとデヴィッドはいっきに語った。私の無知に対して彼はその日一度ならずあきれた。のちにガンクスの発見者でもある伝説のフリッツ・ヴィースナーについてもっと学ぶことになるが、あの夜の私は“指南役”に苛立っていた。ワインのせいかもしれない。
『デイヴ、無知を責められるのはもううんざり。私はクライミングのことを本から学んだわけじゃなく、実践から学んだの!』
つい言ってしまった。…(p210からの引用)

「フリークライミング入門」マイクル・ロフマン著・平田紀之、戸田直樹共訳・1983年山と渓谷社
…1967年9月のある日、ニューヨーク州のシャワンガンクスの岩場でロープを残置ピトンに通しながら私が地上150フィート(約45m)の高さをリードしていると、一人の老紳士が私の数メートル横を追い越していった。(中略)
彼は肩にかけた数本のランナーとカラビナ以外にはロープも登攀具も持たず、たった一人で登っていた。私達はあいさつをかわし、私は彼が苦労して奮闘的な動作を行っているのを眺めていた。私が見つめているのはまさしくフリッツ・ヴィースナーその人であった。
ヴィースナーは1920年代のヨーロッパの代表的なクライマーの一人である。その彼が50年後にガンクスのスリー・パインズ*をフリー・ソロしているのだ。スリー・パインズはいわゆる「初心者向きルート」ではあるが、私にはそこに自分のあこがれとするものがあるように思えた。
すなわちそれは登攀寿命の長さとスタイルの純粋さであり、このことは多くの意味を持っている。…(p28からの引用)
*註)スリー・パインズは、ガンクスのトラップスにある5.2のルート。

「生と死の分岐点」ピッツ・シューベルト著、黒沢孝夫訳・1997年山と渓谷社
…我々は彼の80歳の誕生日にニッツアーでいっしょに岩登りをして楽しんだ。彼はいつもどおり胴まわりにロープを直接巻いた。注意しようかと迷ったが、気が重くてやめた。何しろフリッツ・ヴィースナーは私にとって尊敬すべき大先輩なのだから。
しかもこの人物は80歳というのに厳しいⅤ級を悠々と登ってしまったのだ。フリッツ・ヴィースナーはこれまでリード中に落ちたことは1度もなかった。今度も落ちなかった。
彼の友人の一人が言った。『これじゃ首にアンザイレンしても同じだな』
…スポーツクライミングの世界的普及も、その元を質せばフリッツ・ヴィースナーに行き着く。ヴィースナーは故郷ザクセン砂岩地帯でそうしていたようにアメリカでもハーケンを登攀手段とすることなく、確保手段としてしか使わなかった。ヴィースナーが移住した1920年代のアメリカのクライミングはまだ揺籃期にあったから、ヴィースナーはザクセン式のフリークライミングをアメリカに広めることができた。1970年代になってからヨーロッパでも、のちには全世界で、フリークライミングの魅力が認められるようになった。“ザクセン系アメリカ式クライミング”に魅せられたクルト・アルベルトがこのスポーツをヨーロッパに紹介した。…(p91からの引用)

K2登攀史において重要な位置を占めるため、深田久弥の「ヒマラヤ登攀史」(1969年岩波文庫第二版)を始め、「岩と雪」のK2特集にはたびたび名前があがるものの、扱いは補足的である。
フリークライマーとしての業績を紹介したものとしては、「岩と雪」111号(1985年8月)の「これがシャワンガンクスだ」(ラス・クルーン著・平田紀之訳)位しか見つからなかった。

…伝説によれば、それはいかにもアメリカ東部の初夏らしいある日のことであった。むし暑く、ジトッとした靄があたりに立ちこめていた。1935年6月のこの日、フリッツ・ウィースナーは、ニューヨーク州のハドソン河東岸に面したブレイクネック・リッジという小さい急峻な岩場でクライミングをしていた。と、黒雲が太陽をおおい隠し、雷鳴が轟き始めた。崖のてっぺんでウィースナーは嵐を避ける場所を捜した。だが、天の突発的な怒りはほどなくおさまり、嵐が去ったあと、大気はさわやかにすみわたった。ふと地平線に目をやったウィースナーは、河の向う、はるか北の方に、南北に15マイル位の長さで延びる白い帯のようなものが陽光を浴びてキラキラと輝いているのに気づいた。…(同誌p49からの引用)

英語であれば、比較的豊富な資料があるのかも知れない。だが、アメリカン・アルパイン・ジャーナルの1988年の追悼記事やパット・アメントの「ウィザーズ・オブ・ロック」よりも詳しい記述が見つからないもどかしさがある。

1900年2月26日ドイツ東部ドレスデンに生まれる。12歳の時父と共にドイツの最高峰ツークシュピッツェに登る。14歳の時に第一次世界大戦が始まるが、ちょうどこの頃地元のエルベ砂岩岩塔でクライミングを始めたようだ。ちなみにヴィースナーと入れ違うようにして、この地のパイオニアであるオリバー・ペリー・スミスがエルベを去り、故郷フィラデルフィアへの帰還を余儀なくされている。エルベで腕を磨いたヴィースナーはやがて1920年代を通じて最も優れたクライマーの一人に数えられるまでになり、東部アルプスのカイザー山塊フライシュバンク南東壁という石灰岩の岩壁にローラント・ロッシと共に最も初期のⅥ級と目される270mのルートを拓く。1925年のことである。
1929年に渡米。大学で化学を専攻していた彼は米国で化学品メーカーを起こす。スキー用のワックス等が有名になった。第一次世界大戦の敗戦による巨額の戦後賠償等で当時のドイツ経済は混乱の中にあった。彼の渡米は政治亡命ではなく、米国での成功を求めたものであったようだ。
完全に余談だが、私の母方の祖父も彼と同じ生年であり、満年齢と西暦の下2桁が一致し、時代背景を認識しやすい。私の祖父は18歳の頃、素性を隠して外国船に乗り込もうとして、船長さんに諭されて思い止まっている。前述のオリバー・ペリー・スミスは米国からドイツに渡り、ノルウェー人イバール・ベリは1910年代末の英国ピークディストリクトで活躍した。20世紀の初めは今よりもグローバリゼーションが進んでいたという説もある。海外への憧れは当時の青年達に共通した時代の空気だったのかもしれない。
ヴィースナーは1932年米独合同隊(隊長ヴィリー・メルクル)の一員としてナンガパルバット(8125m)に遠征する。北東稜を6950mまで登ったところで例年よりも早いモンスーンが始まったため登頂こそ成らなかったものの、1895年のママリー以来のこの遠征隊は、1953年の初登頂ルートに目星を付けたことで一定の評価を受けている。
1935年コネチカット州ログドマウンテンで「ベクター」(5.8+R)を登る。このルートは米国初の5.8とされている。たかが5.8かと思われるかもしれないが、1952年にロイヤル・ロビンスがカリフォルニア州ターキッツロックの「オープンブック」を登るまで、米国に5.9のルートは存在しなかったことを考えてみる必要がある。靴底は粗末であり、安全確実な確保技術など当時は存在しなかった。
1935年6月にシャワンガンクスを発見。1937年ワイオミング州のデヴィルズタワーをフリーで初登攀する。このルートは現在ヴィースナークラック(5.8R)と呼ばれている。なお、同峰の初登頂は1893年である。
1939年隊長としてK2(8611m)に遠征する。パサン・ダワ・ラマと共に無酸素で頂上直下230m地点にまで迫るが、戦略上の失敗から4名もの死者を出す悲劇に終わった。
1940年頃からオーストリア出身の整形外科医ハンス・クラウスと共にシャワンガンクスで数多くのルートを拓く。1941年の「ハイ・エクスポージャー」(5.6)等がその代表作とされており、当時使用された装備は、わずかな軟鉄ピトンと麻のロープだった。
第二次世界大戦中は米国陸軍山岳師団の寒冷地作戦における物資補給のアドバイザーとしての仕事をしていた。敵国のドイツ人である彼は従軍を拒否されたとする資料もあるが、彼の年齢が当時既に40代半ばであったことを考えると、無理もなかったのではないかと思える。
1945年に結婚し1男1女をもうける。戦後いち早くクライミングを再開した彼は1946年ガンクスの「ミニー・ベーレ」(5.8)を初登する。46歳にして当時の最高水準を維持し続けていた。1952年ニューヨークからヴァーモント州ストーに移り住み、亡くなるまでここで暮した。
1976年春、スティーブ・ウンシュ、ヘンリー・バーバー、リック・ハッチらと共に故郷ドレスデンを訪れ、地元のベルント・アーノルドらと共にエルベを登る。東西のクライマー達は相互に強い影響を与え合った。1980年にはロビンスのリードでヨセミテの「ナット・クラッカー」(5.8)をフリーで登っている。彼は文字通り生涯現役のクライマーだった。1988年7月3日88歳でこの世を去った。
by tagai3 | 2010-03-25 20:53 | クライミング | Comments(0)
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by tagai3