漂石彷徨



資料

① 岩と雪80号(山と渓谷社1981.4)「シリーズ・日本のボルダー 王子ガ岳その歴史と魅力またはボルダー・サーカスの道化師たちの幾つかの挿話(吉田のり子)」p84~90
②「日本登山体系10関西・中国・四国・九州の山」(白水社1982.4)「王子ヶ岳の岩場(山本譲)」p239~244
③ クライミングジャーナル2号(白山書房1982.7)「特集=ロッククライミングの新ゲーム1ボルダリング ある、ささやかな垂直の舞踏会の思いで(山本譲)」p22~24、「Wild West②岡山・王子ヶ岳(平田紀之+戸田直樹)」p66、67
④ 岩と雪105号(山と渓谷社1984.10)「特集ボルダリング(25)王子ガ岳東のボルダー・エリア(山本譲)」p46、47
⑤ クライミングジャーナル31号(白山書房1987.9)木村伸介 p44~49
⑥ クライミングジャーナル34号(白山書房1988.3)木村伸介 p17
⑦「フリークライミング入門とガイド」(山と渓谷社1989.9)羽原幸士郎
⑧ 岩と雪136号(山と渓谷社1989.10)「日本100岩場 王子ヶ岳」
⑨「日本100岩場中国・四国・九州編」(山と渓谷社2003.7)


岩と雪80号(1981年4月)「シリーズ日本のボルダー 王子ガ岳 その歴史と魅力またはボルダー・サーカスの道化師たちの幾つかの挿話」吉田のり子
この記事によれば、王子ヶ岳でのボルダリングの開始は1975年とされている。岡山クライマースクラブのペルーアンデス遠征、それに続くエルキャピタンのⅥ級ルート・ノーズの日本人初登(吉野正寿、林泰英)、EBシューズの輸入開始の前年である。
岡山クライマースクラブの近藤国彦や吉野正寿、広島山の会の林泰英らにまつわるエピソードが興味深い。また、本文中に記述はないものの、掲載された写真には、奥鐘山西壁紫岳会ルートを山本譲と共にフリー化(1978年10月)した橋本由利子の姿も見られる。ちなみに、岳人395号(1980年5月)「吉備の国の山仲間たち」と題する記事には、橋本について書かれたこんな一節がある。『・・・話しかけてもニコニコと微笑むだけで、多くを語ろうとしない大和撫子である。若手一線会員の山本譲は彼女のことをこう語ってくれた。「橋本さんは会社勤めの間を縫って、昼休みは毎日市内の東山の岩場に通い、自分が納得するまでボルダリングを繰り返しています。日本有数の女性クライマーだと信じます」と。・・・』。本文の筆者吉田を含め、その当時、王子ヶ岳に集った女性クライマー達は現在どのような日々を送っているのだろうか。

「スーパー・カンテ」(1977年・近藤国彦)については、「約二年間、彼を除く全ての挑戦を退け、・・・運動靴にチョークなしという状態で登られたにしては破格の難度・・・」との記述がある。岩雪104号の「フラットソールブーツ特集」の中で近藤はEBの使用再開を1976年としており、後の羽原幸士郎の記述にあるとおり、ある種の伝説だったのかもしれない。更にこの課題については、他にも、クライミングジャーナル2号(1982年7月)の「Wild West②岡山・王子ヶ岳(平田紀之+戸田直樹)」の中に戸田直樹の筆による文章がある。彼がこの課題に初めて触れたのは79年のヨセミテ訪問直後で、それから3年後の2度目の訪問時の印象をまとめている。写真を見ると、この課題が現在よりもずっと(おそらく1m前後)高かったことが分かる。隣接する「安藤君カンテ」(1987~88年・安藤やすし)が長らく未登であり続けたのも、下地の変化が大きな要因だったに違いない。

「ムーンライト・エプロン」(1977年・近藤国彦)。岡山クライマースクラブの秋の酒宴の酔狂として、月夜の晩のセッションの末に登られたことが、クライミングジャーナル42号(1989年6月)の山本譲による「フリークライミングの履歴書」という連載記事の中で語られている。

岩と雪80号のこの記事から、スーパー・カンテ(5.10a/Ⅵ+/4級)、ムーンライト・エプロン(5.6/6級)、グリコ(5.8/4級)、ブー(5.7/7級)、ナテハ(5.10a/Ⅵ+/2級)、サイドスローフレーク(5.8/5級)、サイトウカンテ(5.7/6級)、ダイアゴナルライン(5.9/Ⅵ/3級)、エボシスラブ(5.9/4級)、カエルフェイス(5.9/4級)、ベリーロール(5.8/5級)。これらの課題は1975年~1981年の間に登られたと考えられる。

日本登山体系10関西・中国・四国・九州の山(1982年4月)「王子ヶ岳の岩場」山本譲
フライマンバットレス(Ⅶ‐/3級)、ヤスイスラブ(Ⅵ‐/3級)、ミヤゾノリッジ(Ⅵ‐/2級)、フラッシュゴードンカンテ(Ⅵ+/3級)が初めて活字に登場する。従って、これらの課題は、1981年~1982年に登られたと推測できる。
中でも「ミヤゾノリッジ」にいついては、再三、雑誌に取り上げられている。岩と雪105号(1984年10月)のボルダリング特集における王子ヶ岳についての扱いは小さいが、「リタイヤメント」や「ミラースタンド」と並ぶ好課題としてこの課題を紹介している。更に、岩と雪117号(1986年8月)「西日本の岩場めぐり」の記事の中でも写真付きで王子ヶ岳を代表する課題として紹介されている。

クライミングジャーナル2号(1982年7月)特集=ロッククライミングの新ゲーム1 ボルダリング 「ある、ささやかな垂直の舞踏会の思いで」山本譲
文中にあるムーヴや岩の形状から、おそらく「ミラースタンド」初登時の随想と思われる。文中には、「この小さなホールドは、自分の限界で慌てふためき、自分を見失ってしまった僕を写す鏡だ。」という箇所があり、鏡台のように見える岩の形状に、こうした想いを重ねたとすれば、実に素敵なネーミングだと思う。前掲のとおり、1984年には既にこの地を代表する課題となっていたことからも「ミラースタンド」(初段)の初登は1982年(春?)頃と考えられる。

クライミングジャーナル31号(1987年9月)「ボルダーin王子ヶ岳」木村伸介
この時の発表により、現在存在する課題のほぼ全てが網羅され、課題のグレードもこの時の発表が後に踏襲されていったようだ。CJ34号は補足的な扱いの発表がわずか1ページあるのみである。個人的な印象では王子ヶ岳のグレードとして段・級システムはそぐわないような気がする。岩と雪80号の頃から受け継がれて行った王子ヶ岳独特のデシマル・システムの方がしっくりくるようだ。

「フリークライミング入門とガイド」(1989年9月)羽原幸士郎
文章がとても面白い。当時の空気感が伝わってくるような気がする。他の地域の他のエリアも含めて、大岩純一編のこの本は現在出版されている「100岩場」よりもずっと役に立つ。この頃に王子ヶ岳を登っていた人達が後に備中町の開拓に携わって行くことになったようだ。
(文中敬称略)
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by tagai3 | 2011-05-09 22:44 | クライミング | Comments(5)
Commented by 羽原幸士郎 at 2011-11-05 21:30 x
ご丁寧な解説ありがとうございました。当の本人でさえ、王子岳については忘れかけおり、懐かしさも含め当時が甦ってきました。古き仲間達はグッと減り、今では備中町の岩場においてホンの2,3人が昔の名前で出ています。強い若者に隠れた片隅で、一瞬でルートを見切り、「解った!」であり、目だけで登るクライミングになっております。
ご来岡をお待ちしております。
Commented by tagai3 at 2011-11-07 22:52
羽原さんにお読みいただき、直接ご連絡を頂戴できたことに感激しております。初めて大岩さんの本を手にとってから既に20年近くが経過しましたが、そこに載っていたスプーンカットフェイスの写真が強く印象に残って以来、王子ヶ岳は憧れの土地となっていました。本年2月にその課題が登れた時には、深い感慨がありました。再訪の機会があり、もしご迷惑でなければ、ご連絡させていただき、当時の貴重なお話をお聞かせ願えればと存じます。
Commented by 羽原幸士郎 at 2011-11-11 02:49 x
了解いたしました。またのお越しをお待ちしております。
Commented by 山本 譲 at 2011-11-22 15:06 x
友人の羽原幸士郎の薦めで王子ヶ岳のブログを拝見しました。

私も、今年の1・2月は例年になく寒かったので備中を諦めて、数年ぶりに王子ヶ岳に出かけました。黎明期のことなど知らぬ若者たちと、かつての仲間たちとしたのと同じように無邪気にセッションを楽しむことができました。

今も昔もかわわらずにボルダ―はそこにあり、歴史といっても僅か30年ほどのものですが、そのような歴史にも心を配っていただいて嬉しく思います。

再訪のおりは、羽原ともどもぜひ声をかけて下さい。

Commented by tagai3 at 2011-11-24 22:50
山本さんにご覧いただけただけでも、無上の光栄です。その上、ご連絡まで頂戴できたことに、重ね重ね、感激しております。本当にありがとうございました。
今も登っておられるとの上記の文面を拝見し、なんだか私まで嬉しくなってしまいました。
再訪の際は、是非ともご連絡させていただければと存じます。
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