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漂石彷徨



評伝

書店で見つけて歓喜のあまり急いでレジに走り、帰路の電車の中から先週末にかけて一気に読んだものの、釈然としない読後感。これって「東北大学山岳部50年史-遥かなる山と友」の焼き直し?クライミングジャーナル創刊号の「クライマーの系譜」の誠実さとはあまりにもかけ離れている印象。
資料考証にも違和感を覚えたので、気付いたものだけでもと思って付き合わせしてみると、単なるミスとは思えない不思議な記述が沢山あった。
こういうのがろくに検証もされないまま史実として固定化されてしまうんですかね...。
(※今後、関係者がもっと少なくなっていけば、誤りを正す術は永遠に失われる。そういう危惧による指摘。著者を中傷する意図はない。)

『銀嶺に向かって歌え クライマー小川登喜男伝』(深野稔生著・みすず書房・2013年3月)

P42~43 「東京高校時代」について

大正11(1922)年に設立された東京高校は7年制だが、小川ら1期生は尋常科2年に編入しているため6年間しか通っていない。P43に「(1927年の)翌年(1928年)には、小川たちのリードによって三ツ峠でのクライミングのトレーニングもされるようになった」とあるが、『菊葉の岳人たち』(東高山岳部史編集委員会・2000年)には、最初の訓練は大正15(1926)年とある。これは沼井鉄太郎(1896‐1959)らが『山岳』18年第3号に三ツ峠の岩場を紹介してからわずか1年後で、当時としては驚くべきことだ。高校時代に三ツ峠でトレーニングを積んでいたとすれば、後の東北でのゲレンデ探し(P212)や「ダンスはバランシングのトレーニングによい」という発言に見られるようなトレーニングに対して意識的であった姿勢と符合する。なによりも、昭和5(1930)年以降のクライミングにおける目覚しい成果や多くの人々が指摘している彼の指の強さは「天賦の才」だけで説明できるものではない。
また、『東京高校史』(1960年)という資料には、学校創設当初の部活の活動報告に当時のメンバー名が記載されており、小川は山岳部のほか、音楽部と水泳部にも在籍していたことが分かる。音楽部のオーケストラではビオラを担当し、朝比奈隆(1908-2001)らとともに来校した秩父宮雍仁親王(1902-1953)の御前でハイドンの曲を演奏したこともあったようだ。後年しばしば「アヴェ・マリア」を歌ったことや、深雪のラッセルの苦労を遠泳に例えた手記等が想起され非常に興味深い。発達した後背筋は水泳で鍛えられたのかもしれない。時間をかけてもっとちゃんと探せば、より詳細な彼の高校時代が確認できた筈だ。非常に残念。

P210 「(東京帝大の同期の三人と)急速に親しくなった・・・、積極的に仲間の輪に・・・、」について

『東大スキー山岳部50年史』の清田清による「小川登喜男君と当時の思い出」には、赤門の筋向いにあった不二家でコーヒーを飲み、当時流行していた社交ダンスに凝ったのは、われわれ三人(国塩、田口、清田)だけで、「小川君は(中略)われわれとは一線を画しているようであった。私にはルームと山以外に付合った記憶がない。」とはっきり記されている。したがって、田名部繁の「霧の中の山」にある、小川が「その頃流行しはじめたダンスに熱中し、岩登りのバランシングにいいと云って嬉しそうな顔をしていた」ことについては、同行者が上記三人とは別であったと考えられる。東大時代の同僚(国塩、清田)による小川に対する述懐には、東北大時代の仲間達(田名部、成瀬)にみられるような故人への親しみが感じられず、最初の印象は卒業するまで変らなかったと見るのが自然だろう。

P211 「浅草生まれ・・・」、「三社祭を毎年見て育った下町っ子」について

『東京高等学校一覧』(大正10年)の在校生名簿には出身小学校、氏名、本籍の順で「駒澤・小川登喜男・東京」とある。同年同級の朝比奈隆については同欄に彼の半生記『楽は堂に満ちて』(日本経済新聞社1978年)にある一年間だけ通った中学校名「私立高千穂」ではなく、小学校名「青山高等師範付属」が記載されていることから、「駒澤」が小学校名であることはほぼ間違いない。本籍が浅草だったとしても、学区から考えて比較的早い時期に世田谷に転居していたと考えるのが自然だ。また、日本山岳会入会時の住所は「東京府高井戸町大宮前515」、東京帝大山岳部『報告1932』の発行人欄の住所は「東京市杉並区大宮前四丁目515」となっている。東京に実家があるのに、わざわざ本郷から遠いところに下宿するだろうか。更に、『東京姓名録』(明治33年)の公証人欄には「小川正直 浅草馬車町2ノ19」とあるが、『東京公証人会事務打合決議集第三編』(大正11年)巻末名簿には全く同じ住所で「宮地貞頴」という別人の姓名が記されていることから、浅草は出生地ではなく、父親の職場(公証人役場)であった可能性が高い。出生地を浅草とした根拠は弟猛男が折井健一に宛てたメモを参考に山崎安治がまとめた『山岳』63年(1969年)掲載の「略歴」と思われるが、三つ下の弟の幼少期の記憶に混乱があっても無理はないだろう。

P290 「指の切断事故」について

この話の唯一の出典は『クライミングジャーナル』創刊号掲載「クライマーの系譜‐第1回」執筆に際し、遠藤甲太が国塩研二郎に行ったインタビューと思われる。遠藤甲太の文章は資料考証が実に丁寧で、不明なことは不明とちゃんと書いてあるが、本書ではこれをそのまま「事実」として転用している。だが、さほど親しくもなかった国塩による「風の便り」という程度の伝聞情報に、果たして、どれだけの信憑性があるのか大いに疑問だ。昭和22(1947)年に上高地で見事な油絵を描き(P292)、死病を患う遠因となった呼吸器疾患の直前までスキーができた(P294)ことを考えると、障害の程度は軽かったということか。「小川の登攀人生は、その時点終わりを告げた。」と断定している割には、具体的な時期や状況を特定できていないことに強い違和感を覚えた。

P293 「大同製綱専務取締役大阪支店長就任」について

この情報の出典も『山岳』63年の略歴と思われるが、『大同製鋼の現状と40年の歩み』(1958年)、『大同製鋼50年史』(1967年)、『大同鋼板50年史』(2001年)等の社史をみても、歴代の取締役名簿に小川の名をみつけることができない。小川の就業期間が戦時の産業集中化と敗戦後の集中排除の時期と重なり、繰り返された統合や分割が混乱の一因かもしれないが、専務取締役と言えば、普通は会社のナンバー2だ。いかに戦後の混乱期とはいえ、少し前まで国策を担ってきた大企業幹部に40歳そこそこで就任できるものだろうか。小川が取締役を務めていたとされる時期の上記2社の取締役の年齢層は50代後半が中心だった。

P210「社会人になってからも趣味を続けられる時代ではなかった。」、P287「・・・当時みんながそうであったように、仕事一筋の生活・・・」その他について

小川とほぼ同世代に属する甲南高校・京大山岳の伊藤愿(1908-1956)、徒歩渓流会の杉本光作(1907-1980)、大阪医大・RCCの水野祥太郎(1907-1984)らは、社会に出てからも山を登り続けた。P199にあるとおり、小川と田名部も「安田生命の2人と同行した」ことがあり、当時、職域山岳部の活動が活発であったことは同時代の多くの資料に見られる。なによりも、衝立岩中央稜初登の際、田名部は既に社会に出ており、南稜に同行できなかったのは勤務の都合だったと「霧の中の山」にも書かれている。職種や業態によるのであれば「・・・の時代ではなかった。」とか「みんなが・・・」とかいう表現は不適切ではないだろうか。また、就職する直前までシュミット兄弟の映画(邦題『銀嶺征服』(フランツ・ウェンツラー監督)1932年公開)を追いかけて4回も見たような人物が、そんなに簡単に山を諦めてしまうものだろうか。こうした疑問に対する答えとして、「・・・の時代ではなかった。」とか「みんなが・・・」とかいう記述はいかにも浅薄で何の説明にもなっていない。また、この映画のエピソードについて、P278には、あたかも田名部だけの逸話であるかのように「相棒の田名部などは映画の上映館を追って四回も観たという」と書かれていているが、「霧の中の山」には「二人で此の映画を追い廻して」とはっきり書かれている。
更に、小川が書いた登攀論の発表の順序は、①「BIWARK(1932.10.1)」東高山岳部『会報』第1号(1933年1月)、②「森の中(1934.8.6)」梓書房『山』昭和9年9号(1934年9月)、③「アルピニズム(日付なし)」朋文堂『ケルン』第32号(1936年1月)。内容はいずれも実践を重んじてきた人物が尚も実践を主張するといったもので、書いた本人が山に行っていないようには読めない。昭和9年の「森の中」を最後に去って行ったとすると、昭和10年以降の「アルピニズム」執筆の説明がつかなくなってしまう。単に記録を残さなかったか、戦災で失われただけで、以後も活動していた可能性はあるのではないだろうか。

P288 「北壁に一人で取りついて雪崩にでも巻き込まれたものか、・・・あの小川にしてと思わされる遭難騒ぎであった。」について

昭和8(1933)年暮~翌9(1934)年正月の単独行については、小川自身が梓書房『山』昭和9年12号(1934年12月)に「遠見山」というタイトルで手記を発表している。
by tagai3 | 2013-04-12 23:32 | 書評 | Comments(0)
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岩登りについての所感

by tagai3