漂石彷徨



低脂肪

2016年11月26日(土)晴れ
前々日の24日、都心では11月としては54年ぶりの初雪が観測され、積雪はわずかながらも明治8(1875)年の観測開始以来初と報じられていた。残雪によるアプローチの懸念はあるものの、翌日は雨の予報が出ていたのでSに無理を言ってこの日に出掛けた。八王子ICを下りると北側の法面には結構な雪が残り、路面も濡れていた。路面の凍結を避けるため普段よりもゆっくりと朝食をとってから氷川屏風岩に向かう。途中御獄付近から望まれる遠方の日当たりのいい斜面に雪がないことに希望をつないだ。
多摩川南岸道路のトンネルを抜け、橋を渡ったところから岩場に雪がないことを確認してようやく安堵するが、それと同時にはたして今の自分に登れるだろうかという不安が再び頭をもたげてくる。トレーニング不足による持久力の不安はいうまでもなく、年相応の疲労回復速度も依然把握できていない。おまけに一週間前に削ってしまった指の皮はまだ完全に回復していない。不安要素をあげればきりがないが、人生においては次の機会が不意に、しかも永遠に失われることが決して珍しくないことを肝に銘じ、手順さえ誤らなければ問題はない筈だと自分に言い聞かせながら通い慣れた岩場への急坂をたどる。
給水タンク脇の果樹園では柚子の収穫が行われ、秋に通い始めた頃は盛りだったイヌタデの花は茎だけを残して霜の中で萎れていた。残雪と落ち葉で滑りやすい箇所はあったものの、鬱蒼と茂る杉木立のお陰で道の状態は心配した程ではなく、C峰上の広場にわずかに残雪はあるものの、流水もなく壁は乾いていた。
懸垂下降でヌンチャクを掛けながら、ひとつひとつのホールドを確認する。20回近くのトライを重ねた今となっては、スタイルへのこだわりはどこかへ行ってしまった。腕が張ってくると、まさかと思うようなところで行き詰まるので、上部は特に入念に確認した。

水を飲んで一息ついた後、心を落ち着けて取り付く。気温が高いとわずかな日射で指先がはじかれるため、これまでは些細な雲行きにさえ一喜一憂してきたが、この日は肌寒く、日差しはむしろありがたい位だった。
この日の一回目。出だしの持ち替えはできたが、二本目のボルト直下、上下に二つ並んだのクリンプの下側右手が持てずに落ちる。このホールドは外傾していて甘く、アーケでは保持できない。皮を庇って人差し指の指先に力を入れられなかったのが原因だろう。
呼吸を整え、すぐに二回目に取り掛る。出だしの持ち替えでフルパワーとなるため、上部での疲労は避けられない。そのため勝負は最初の一、二回に限られる。件のクリンプとその上の左が止まり、足を踏み換える。右側のグルーで固められた突起に右足のハイステップを乗せたところで爪先がわずかに滑ったが、何とかフレークに手が届き二本目のボルトにクリップすることができた。人差し指の掛かる右手のクリンプから左のバンドを取った後、三角形のくぼみの縁に右手を寄せ、ヒールフックでバンドに立ち込んでいく。置きやすいところに左足を乗せてしまうと、次のボルトの直下のホールドに手が届かないため、二つ並んだツノ状の突起のやや下側に左足をかき込む感じで乗せなければならない。ここを突破した後でも、もう三回も失敗を重ねている。うち一回は最後の一手から大墜落した。慎重に右側のスタンスを拾い、がちゃがちゃしたホールドをパーミングで止めた。最後の四手。ホールドは大きいがそれぞれが遠い。この日はなぜかスムーズに身体が動いた。大事を取って最後のリップは小刻みに手を送る。天辺に這い上がり、Sを見下ろしながら終了点にクリップ。小さく歓声を上げた。こういう時は叫んでもいいだろう。Sがおめでとうといってくれた。こんなところに七回もつきあわせてしまったことを心から申し訳なく思う。

回収と掃除のロワーダウン。下るにつれ壁から身体が離れていくことで、下部の被りが如何に大きいかが分かる。それにしても、何と見事なラインだろう。ホールドの配置が絶妙で全く無駄がない。必要最小限のボルトとともに、無駄な贅肉が削ぎ落とされているという意味で「低脂肪」という名は実に相応しいものに思えた。
自分が初めてここに来たのは今から14年前(2002年)なので、草野俊達による初登(1988年3月6日)からその頃までとほぼ同じ長さの時間が流れてしまったことになる。当時は東北から戻ったばかりの頃で、黒本の表紙のマナヴさん、秀峰登高会のMさん、Kさんと一緒だった。その後、二、三度通ったが、マナヴさん、Mさんがその後次々とRPしたことや、アプローチが忌避されて同行者を得にくかったことなどが重なり自然と足が遠のいていった。今の自分の年齢が当時のMさんのそれ(40歳)を既に三つも越えていたことに今更ながら驚く。思えばトライを再開してからの二ヶ月間というもの、自分の心はこのルートに完全に支配され、寝ても覚めてもこのルートのことを考え続けていた。年齢や生活環境を言い訳に、何度逃げようとしたか分からない。そのたびに自分の弱さと向き合うことを強いられた。それも今日で終わりだと思うと、改めて嬉しさがこみ上げてきた。駐車場に戻ってからも、何度も壁を見上げる私を見てSは笑ったが、試練を与えてくれた聖なるもの(?)に対し、遙拝したいような気持ちになっていたことは確かだ。
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以下は氷川屏風岩の簡単な登攀史。
『奥多摩の山と谷』(奥多摩山岳会編・1958(昭和33)年・山と渓谷社)という本には次のような記述があり、氷川屏風岩が登られだしたのが、1957(昭和32)年前後であることが分かる。

「・・・前記二つの代表的な岩場(引用者注:葛籠(つづら)岩、越沢バットレス)以外に注目に価するものとして近年脚光をあびてきた氷川屏風岩があるが、未だ開拓途上にある・・・(中略)・・・何分にも藪が多く、所詮岩場としてはC級の域を出ない」

クライマーによる東京近郊の岩場探しは昭和4年頃から精力的に行われ、青梅線の青梅・氷川(現奥多摩)間の営業運転開始が1944(昭和19)年であることなどから、終戦直後から登られ始めたものとばかり思っていたが、実際は比較的歴史が浅いことが分かる。あれほど見栄えがいいにもかかわらず、社(やしろ)が祭られていないことも考えあわせると、昭和30~40年代に盛んに行われた人工林の植林以前は樹層も異なり、麓からは見えにくかったのかもしれない。これについては地元の古老あたりに訊いてみたいものだ。

また、同会編による4年後の『奥多摩』(1961(昭和36)年・山と渓谷社)という本には、A峰の「懸垂下降ルート」のほか、登路としては、A峰正面ルート(現在の「フェイスルート」(Ⅴ+))、B峰左ルート(現在の「トサカフランケルート」(Ⅳ))、B・C峰間右ルート(現在の「コンタクトルート」(Ⅲ+))の3本が紹介されているもののいずれも易しいフリールートのみで、人工登攀ルートは見られない。この本の出版当時、既に我が国の埋め込みボルトを使用した本格的な人工登攀ルートの嚆矢とされる谷川岳コップ状岩壁や屏風岩雲稜ルートは登られていた(1958(昭和33)年)ので、東京近郊の岩場の人工登攀時代は実は比較的短い期間(15~20年間程度)であったことが分かる。
70年代の『岩場ゲレンデガイド 関東編』(1977(昭和52)年・山と渓谷社)という本になって初めて、「奥多摩の岩場の中でも古くから登られ・・・」とか「人工登攀主体の岩場」という言葉が出てくる。この後、A峰正面のフリー化(1980年)、C峰Dフェイス左ルートのフリー化(「イクイイノシシ」(1984年小林幸雄))、同Dフェイス右ルート(?)のフリー化(1988年「低脂肪」)と続いていく。
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by tagai3 | 2016-12-05 22:29 | クライミング | Comments(0)
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