漂石彷徨



カテゴリ:書評( 16 )


最近の読書

「宮本武蔵」
吉川英治(1892-1962)著。昭和10年8月12日~昭和14年7月10日東京大阪の両朝日新聞夕刊に連載。永田鉄山刺殺事件の日に連載開始。連載満2年の直前に盧溝橋事件が勃発し、後半2年間は戦時下での連載となる。途中作者自身もペン部隊で従軍。出征兵士が試合前の武芸者の姿に自らの心境を仮託したためか、当時の読者に熱狂的に支持され、当初400回程度の予定が1000回を超える超長期連載となった。作者も執筆に渾身の力を注ぎ、連載開始当初(43歳)12貫(45キロ)あった体重が連載終了時(47歳)には10貫(37.5キロ)にまで減ってしまったという。(ほんとかなぁ?)坂口安吾(1906-1955)は昭和25年2月の朝日新聞紙上に寄稿した「百万人の文学」の中で、同書を「大菩薩峠」、「出家とその弟子」、太宰治の諸作品とともにこの作品を「評論家やジャーナリズムから独立して、直接に大衆の中によび迎えられて行くもの」、形式だけの純文学よりもはるかに「宗教的な雰囲気をもって熟読されている」として、高く評価している。
お杉ばあさんや又八との掛け合いが長すぎて少々うんざりする部分は確かにあるが、独特の風格があり、なるほど戦中の人々はこういう部分に惹かれのだということが良く分かった。「我ことにおいて後悔せず」云々の部分を読んでいて、山田二郎の「どこからどう振り返っても悔いのない山」という心構えは、山本雄一郎、加藤喜一郎らを介して、ここからスタートしていたのではないかと思ったりした。

「随筆宮本武蔵」吉川英治(昭和11年2月)

「新説宮本武蔵」司馬遼太郎

「青春論」坂口安吾(昭和17年11月、12月「文學会」掲載)

「忘れ残りの記」吉川英治(昭和36年文芸春秋)

「高木文一 初登攀の軌跡」
とにかく酷い内容。半分以上は著者の寝言が続き、旧制成蹊高校や高木文一のことはこれっぽっちも分からない。よくもまあこんな酷い本が出版されたものだ。

「谷川岳大バカ野郎の50年」寺田甲子男
肩の小屋の吉田さんの最後の日のできごとなど、歴史の証言的な価値はある。

「回想の谷川岳」安川茂雄
名著。古典の名に値する。

「街道をゆく/台湾紀行」司馬遼太郎

「屏風岩登攀記」石岡繁雄
以前読んだときはこんなに面白いことに気がつかなかった。とてもいい。

「わが岩壁」古川純一
文章が簡潔明瞭ですごく巧い。

「沈黙の山嶺」ウェイド・デイヴィス著 秋元由紀訳(白水社2015年6月)
すばらしいの一言。構想25年、600冊を越える資料と膨大な関係者への綿密なインタビュー取材、執筆に10年をかけたというだけあって、著者による予断などの粗雑物がほとんど混ざっていないノンフィクションのお手本のような完成度。1921年、22年、24年の遠征隊員全26人の人となりが実に見事に描写され、あたかも膨大な人物が登場する「三国志」や「坂の上の雲」を読むように、長さが全く気にならなかった。学生時代に深田久弥の「ヒマラヤの高峰」を読んで以来、モーズヘッドやノートンやサマヴェルがどういう人物だったのかずっと知りたかったので、読み進めるにつれてジグソーパズルの空白が埋められていくような快感を覚えた。オリヴァー・ウィーラーの日記の話は特に興味深い。ジョン・モリスが日米開戦直前まで母校で教鞭をとっていたこともこの本によってはじめて知った。図書館で借りて上下1度ずつ延長し、下巻の延長日に読み終わったので、通勤電車の中だけで読むのに6週間かかった計算になるが、購入して手元に置いておきたくなってしまった。
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by tagai3 | 2015-06-06 13:36 | 書評 | Comments(0)

評伝

書店で見つけて歓喜のあまり急いでレジに走り、帰路の電車の中から先週末にかけて一気に読んだものの、釈然としない読後感。これって「東北大学山岳部50年史-遥かなる山と友」の焼き直し?クライミングジャーナル創刊号の「クライマーの系譜」の誠実さとはあまりにもかけ離れている印象。
資料考証にも違和感を覚えたので、気付いたものだけでもと思って付き合わせしてみると、単なるミスとは思えない不思議な記述が沢山あった。
こういうのがろくに検証もされないまま史実として固定化されてしまうんですかね...。
(※今後、関係者がもっと少なくなっていけば、誤りを正す術は永遠に失われる。そういう危惧による指摘。著者を中傷する意図はない。)

『銀嶺に向かって歌え クライマー小川登喜男伝』(深野稔生著・みすず書房・2013年3月)

P42~43 「東京高校時代」について

大正11(1922)年に設立された東京高校は7年制だが、小川ら1期生は尋常科2年に編入しているため6年間しか通っていない。P43に「(1927年の)翌年(1928年)には、小川たちのリードによって三ツ峠でのクライミングのトレーニングもされるようになった」とあるが、『菊葉の岳人たち』(東高山岳部史編集委員会・2000年)には、最初の訓練は大正15(1926)年とある。これは沼井鉄太郎(1896‐1959)らが『山岳』18年第3号に三ツ峠の岩場を紹介してからわずか1年後で、当時としては驚くべきことだ。高校時代に三ツ峠でトレーニングを積んでいたとすれば、後の東北でのゲレンデ探し(P212)や「ダンスはバランシングのトレーニングによい」という発言に見られるようなトレーニングに対して意識的であった姿勢と符合する。なによりも、昭和5(1930)年以降のクライミングにおける目覚しい成果や多くの人々が指摘している彼の指の強さは「天賦の才」だけで説明できるものではない。
また、『東京高校史』(1960年)という資料には、学校創設当初の部活の活動報告に当時のメンバー名が記載されており、小川は山岳部のほか、音楽部と水泳部にも在籍していたことが分かる。音楽部のオーケストラではビオラを担当し、朝比奈隆(1908-2001)らとともに来校した秩父宮雍仁親王(1902-1953)の御前でハイドンの曲を演奏したこともあったようだ。後年しばしば「アヴェ・マリア」を歌ったことや、深雪のラッセルの苦労を遠泳に例えた手記等が想起され非常に興味深い。発達した後背筋は水泳で鍛えられたのかもしれない。時間をかけてもっとちゃんと探せば、より詳細な彼の高校時代が確認できた筈だ。非常に残念。

P210 「(東京帝大の同期の三人と)急速に親しくなった・・・、積極的に仲間の輪に・・・、」について

『東大スキー山岳部50年史』の清田清による「小川登喜男君と当時の思い出」には、赤門の筋向いにあった不二家でコーヒーを飲み、当時流行していた社交ダンスに凝ったのは、われわれ三人(国塩、田口、清田)だけで、「小川君は(中略)われわれとは一線を画しているようであった。私にはルームと山以外に付合った記憶がない。」とはっきり記されている。したがって、田名部繁の「霧の中の山」にある、小川が「その頃流行しはじめたダンスに熱中し、岩登りのバランシングにいいと云って嬉しそうな顔をしていた」ことについては、同行者が上記三人とは別であったと考えられる。東大時代の同僚(国塩、清田)による小川に対する述懐には、東北大時代の仲間達(田名部、成瀬)にみられるような故人への親しみが感じられず、最初の印象は卒業するまで変らなかったと見るのが自然だろう。

P211 「浅草生まれ・・・」、「三社祭を毎年見て育った下町っ子」について

『東京高等学校一覧』(大正10年)の在校生名簿には出身小学校、氏名、本籍の順で「駒澤・小川登喜男・東京」とある。同年同級の朝比奈隆については同欄に彼の半生記『楽は堂に満ちて』(日本経済新聞社1978年)にある一年間だけ通った中学校名「私立高千穂」ではなく、小学校名「青山高等師範付属」が記載されていることから、「駒澤」が小学校名であることはほぼ間違いない。本籍が浅草だったとしても、学区から考えて比較的早い時期に世田谷に転居していたと考えるのが自然だ。また、日本山岳会入会時の住所は「東京府高井戸町大宮前515」、東京帝大山岳部『報告1932』の発行人欄の住所は「東京市杉並区大宮前四丁目515」となっている。東京に実家があるのに、わざわざ本郷から遠いところに下宿するだろうか。更に、『東京姓名録』(明治33年)の公証人欄には「小川正直 浅草馬車町2ノ19」とあるが、『東京公証人会事務打合決議集第三編』(大正11年)巻末名簿には全く同じ住所で「宮地貞頴」という別人の姓名が記されていることから、浅草は出生地ではなく、父親の職場(公証人役場)であった可能性が高い。出生地を浅草とした根拠は弟猛男が折井健一に宛てたメモを参考に山崎安治がまとめた『山岳』63年(1969年)掲載の「略歴」と思われるが、三つ下の弟の幼少期の記憶に混乱があっても無理はないだろう。

P290 「指の切断事故」について

この話の唯一の出典は『クライミングジャーナル』創刊号掲載「クライマーの系譜‐第1回」執筆に際し、遠藤甲太が国塩研二郎に行ったインタビューと思われる。遠藤甲太の文章は資料考証が実に丁寧で、不明なことは不明とちゃんと書いてあるが、本書ではこれをそのまま「事実」として転用している。だが、さほど親しくもなかった国塩による「風の便り」という程度の伝聞情報に、果たして、どれだけの信憑性があるのか大いに疑問だ。昭和22(1947)年に上高地で見事な油絵を描き(P292)、死病を患う遠因となった呼吸器疾患の直前までスキーができた(P294)ことを考えると、障害の程度は軽かったということか。「小川の登攀人生は、その時点終わりを告げた。」と断定している割には、具体的な時期や状況を特定できていないことに強い違和感を覚えた。

P293 「大同製綱専務取締役大阪支店長就任」について

この情報の出典も『山岳』63年の略歴と思われるが、『大同製鋼の現状と40年の歩み』(1958年)、『大同製鋼50年史』(1967年)、『大同鋼板50年史』(2001年)等の社史をみても、歴代の取締役名簿に小川の名をみつけることができない。小川の就業期間が戦時の産業集中化と敗戦後の集中排除の時期と重なり、繰り返された統合や分割が混乱の一因かもしれないが、専務取締役と言えば、普通は会社のナンバー2だ。いかに戦後の混乱期とはいえ、少し前まで国策を担ってきた大企業幹部に40歳そこそこで就任できるものだろうか。小川が取締役を務めていたとされる時期の上記2社の取締役の年齢層は50代後半が中心だった。

P210「社会人になってからも趣味を続けられる時代ではなかった。」、P287「・・・当時みんながそうであったように、仕事一筋の生活・・・」その他について

小川とほぼ同世代に属する甲南高校・京大山岳の伊藤愿(1908-1956)、徒歩渓流会の杉本光作(1907-1980)、大阪医大・RCCの水野祥太郎(1907-1984)らは、社会に出てからも山を登り続けた。P199にあるとおり、小川と田名部も「安田生命の2人と同行した」ことがあり、当時、職域山岳部の活動が活発であったことは同時代の多くの資料に見られる。なによりも、衝立岩中央稜初登の際、田名部は既に社会に出ており、南稜に同行できなかったのは勤務の都合だったと「霧の中の山」にも書かれている。職種や業態によるのであれば「・・・の時代ではなかった。」とか「みんなが・・・」とかいう表現は不適切ではないだろうか。また、就職する直前までシュミット兄弟の映画(邦題『銀嶺征服』(フランツ・ウェンツラー監督)1932年公開)を追いかけて4回も見たような人物が、そんなに簡単に山を諦めてしまうものだろうか。こうした疑問に対する答えとして、「・・・の時代ではなかった。」とか「みんなが・・・」とかいう記述はいかにも浅薄で何の説明にもなっていない。また、この映画のエピソードについて、P278には、あたかも田名部だけの逸話であるかのように「相棒の田名部などは映画の上映館を追って四回も観たという」と書かれていているが、「霧の中の山」には「二人で此の映画を追い廻して」とはっきり書かれている。
更に、小川が書いた登攀論の発表の順序は、①「BIWARK(1932.10.1)」東高山岳部『会報』第1号(1933年1月)、②「森の中(1934.8.6)」梓書房『山』昭和9年9号(1934年9月)、③「アルピニズム(日付なし)」朋文堂『ケルン』第32号(1936年1月)。内容はいずれも実践を重んじてきた人物が尚も実践を主張するといったもので、書いた本人が山に行っていないようには読めない。昭和9年の「森の中」を最後に去って行ったとすると、昭和10年以降の「アルピニズム」執筆の説明がつかなくなってしまう。単に記録を残さなかったか、戦災で失われただけで、以後も活動していた可能性はあるのではないだろうか。

P288 「北壁に一人で取りついて雪崩にでも巻き込まれたものか、・・・あの小川にしてと思わされる遭難騒ぎであった。」について

昭和8(1933)年暮~翌9(1934)年正月の単独行については、小川自身が梓書房『山』昭和9年12号(1934年12月)に「遠見山」というタイトルで手記を発表している。
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by tagai3 | 2013-04-12 23:32 | 書評 | Comments(0)

最近読んだ本

雪・岩・アルプス 藤木九三
ある山男の自画像 藤木九三
皇族に生まれて 秩父宮雍仁親王
皇族に生まれてⅡ
ヒマラヤの東 中村保
深い侵食の国 中村保
僕のザイル仲間たち 小西政継
山 紀行と随想 大島亮吉
先蹤者 大島亮吉
山に憑かれた男 加藤喜一郎
登頂ヒマルチュリ 山田二郎
会社再建の記 早川種三
山なみはるかに 三田幸夫

ある種の偏見はあったが、厭味のない文章は非常に読みやすかった。Ⅱには英国留学中、随員を連れずに英国人の友人とだけで湖水地方を訪れたエピソードがつづられている。同時期に同地方に足を運んだ記録としては、藤木九三がケズイックにG・アブラハムを訪ねたものがあるが、藤木は現地で実際に岩登りはしなかったらしく、日本人による同地域での登攀記録としては場合によっては最古といえるかもしれない。「パンプ」のために当日の晩餐のナイフとフォークが持てなかったという記述も登場する。これも日本最古かもしれない。

「先蹤者」を読まなければ、大島亮吉が何を伝えたかったのかは分からないようだ。「涸沢の岩小屋の・・・」や「バドミントンスタイル」等は、それだけで読んでも全く意味をなさないが、「先蹤者」と併読してはじめて全体像としてつながる。特に「A・F・マンマリー」の章で彼が「アルプス・コーカサス登攀記」のどこを引用しているかは重要な意味をもつだろう。先日亡くなった石一郎訳の「アルプス及コーカサス登攀記」が朋文堂から出版されるのは昭和13年であり、それ以前にママリーについて日本語で紹介されたものは昭和10年出版のこの「先蹤者」か大島自身が「登高行」や「山とスキー」に発表したものにほぼ限定されている。小川登喜男のママリーについての知識もこれらに拠っていたことが伺える。
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by tagai3 | 2012-03-19 23:03 | 書評 | Comments(0)

5冊

最近、5冊ある植村直己の著書のうち「極北に翔る」、「北極圏1万2千キロ」、「北極点・グリーンランド単独行」の3冊を読み返した。
価値の基準を自ら確立していった点は後の模倣者達とは決定的に異なる。小西政継の言葉を更に遠回しで借用すれば、水平のジョン・ギルと言ってもいいかもしれない。
それはさておき、後の2冊は現在、文春文庫から外されてしまっている。「落ちこぼれて…」とか「100万回の・・・」を文庫化する位なら、残しておいた方がどれだけよいか分からない。精神性は比較にならぬ。全く以って惜しい。
植村さんが犬ぞりの鍛錬に励んだように、私もワイドクラックの鍛錬に励みたいと切に思った。
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by tagai3 | 2011-09-05 22:24 | 書評 | Comments(0)

モファット自伝

驚異的に面白かった。比較的易しい英語で書かれているようで、とても読みやすい。雑誌の記事等で断片的に聞いたことがあるエピソードが前後関係と共につながって行く。友人達(アンディ・ポリット、ベン・ムーン、バーカー、カウク、ギュリッヒ、クルト・アルベルト、ドウズ)との出会いや交流がなんとも興味深い。
学校を卒業した夏にアンディと共にトレマドックでひと夏を過ごし、その後はストーニーの岩小屋に直行して、25歳までを住所不定でクライミングにのめりこんで行く。少年達の冒険談を優しく聞いてくれたトレマドックのキャンプ場の親父(エリック・ジョーンズ)、オレンジジュース1杯で粘るみすぼらしい若者の食べ物持ち込みを見逃してくれたストーニーカフェのおばちゃん、簡単な手伝いだけで朝食を恵んでくれたペントゥルウィンの食堂のおばちゃん等等…。
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by tagai3 | 2010-12-29 23:32 | 書評 | Comments(0)

最近読んだ本

「セブン・イヤーズ・イン・チベット」
ハインリッヒ・ハーラー著 福田年宏訳 1997年角川ソフィア文庫(1981年白水社「チベットの七年」の復刻版)
2000年にブラッド・ピット主演で映画化されている。個人的にはあの映画には苦い思い出がある(一緒に行った女の子に自己啓発サークルに勧誘された。)のだが、原作は映画よりもずっと面白く、長さも決して気にならない。読み終わるのが残念に感じられる程だった。ハーラー自身が後に回想しているように、英国軍の捕虜の扱いは国際条約に基づく適正なものであったにもかかわらず、収容所の快適な生活を逃れて危険を冒してまでチベットを目指した理由は、偏に未知なるものに触れたいという情熱によるものだった。彼らは終始クライマーとしての目でものごとを見ており、似たような行程を旅した河口慧海の名著「チベット旅行記」と読み比べてみるとまた違った趣がある。時代背景(ハーラーの時は第2次大戦中でダライラマは幼少の14世、慧海の時は日露戦争前後でダライラマは若き13世)と文化的な背景(オーストリア・グラーツ出身のクライマーと日本生まれの生真面目な仏教修行者)の違いにもかかわらず、多くの類似点が見つかるのも面白い。

「わたしの山旅」
槇有恒著 1968年岩波新書

「城塞」上、中、下
司馬遼太郎

「アルプス登攀記」上、下
エドワード・ウィンパー著 浦松佐美太郎訳 1936年岩波文庫

「八〇〇〇メートルの上と下」
ヘルマン・ブール著 横川文雄訳 1974年三笠書房
原書の初版が出版された1954年の翌年には既に邦訳が出ている。出版社は雑誌「ケルン」の朋文堂。日本だけでなく世界中で広く読まれた。ヒマラヤ登攀史に大きな足跡を残した人物だが、その影響は高峰登山だけに止まらない。若き鈴木英貴はクライマーとしての理想像をブールの姿に重ね、ジョン・ギルはブールの噂に耳にして片手一本指懸垂のトレーニングに励んだと伝えられている。エヴェレストのメスナーからトランゴのクルト・アルベルト、最近では辺境への旅を重ねるグロバッツに至るまで、ドイツ語圏のクライマーが書いたものやインタビュー記事を読んでいると、頻繁に〝By fear means"という言葉が目に留まるが、この本の中でも、ナンガパルバット登頂後に大先達であるA.F.ママリーに捧げる言葉として「あなたの遺志を継ぎ人工的補助手段に頼らずにナンガパルバートに登りました。」という形でこの言葉を用いている。1957年に亡くなった人なので、明確にフリークライミングを意識していた訳ではないが、地元での岩登りについて触れた箇所では繰り返し「手と足だけで」登るのが何よりも好きだと述べている。人工的補助手段という点では、酸素もピトンも同類とみなしていた節があり、主張は一貫している。
ただし、少々長い。せめてチロルとドロミテの地図と彼の登ったルートについての簡単な概念図でもあればもう少し読みやすくなるのだが。戦中戦後の敗戦国クライマーの生活が伝わる数々のエピソードが興味深いだけに、この読みにくさが非常に悔やまれる。インスブルック近郊からヒマラヤまでという地理的な展開を追うために、敢えて時間軸を前後させている章があることもこれに拍車をかけている。また、P・シューベルトが「生と死の分岐点」の中で、この本はブールではなく編集を担当したクルト・マイクスが書いたものであると述べていたことが気になり、素直に感情移入できなかったことも読みにくさを感じた理由かもしれない。クルト・マイクスによる贋作疑惑はかなり有名で、かのメスナーがH・ホフラーと共にまとめたブールの伝記「妥協なき登攀」には、遺族へのインタヴューを交えてこのあたりの経緯が細かくまとめられているらしい。残念ながら日本語訳はなく2000年に出版された英訳版にあたるしかないが、結構高価なので読まずに終わってしまいそうだ。
ともあれ、エピソード集としては非常に興味深い。アイガーではガストン・レビュファと出会っていてその時の模様をレビュファも「星と嵐」に書いているので、読み比べてみるのも一興である。個人的にはレビュファのフランス人らしさが鼻について、ますます嫌いになってしまったが。
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by tagai3 | 2010-06-07 22:22 | 書評 | Comments(0)

最近読んだ本

「アラスカ 光と風」星野道夫
著作集が出ており、その第一巻を図書館から借りて読んだ。初期の著述。彼の文章は晩年に近づくにつれて完成度が上がっていくが、これはこれで非常に魅力のある本だった。カヤックの経験が乏しいにも関わらず、いきなり氷河の海に漕ぎ出してしまったり、絶対無理だと言われながらも極寒のマッキンレーをバックにオーロラを撮るまで耐え抜いたりする件は、引き込まれて一気に読んでしまう。

「デルス・ウザーラ」アルセニエフ 小学館
前掲書で紹介されている。星野が読んだものはおそらく長谷川四郎訳のものだろう。安岡章太郎の娘さんの抄訳は、東洋文庫のものよりも読みやすかった。こんなに面白いとは思わなかった。時代は日露戦争直後からシベリア出兵直前位だ。帝政ロシアの軍人アルセニエフが原住民の猟師デルス・ウザーラとともにシベリア極東のシホテアリニ山脈を探検する。超人的な活躍をしていた老猟師も、ある時抗い難い老いを自覚する。アルセニエフは友人のために街で共に暮らすことを提案するが、山で生き続けてきたデルスには都会の水が合わない。印象的な場面は無数にあるのだが、星野が自らの作品の中で引用しているのは、デルスが虎を誤って殺してしまったことを長く畏れつづけたという件だ。何を読んで、何を感じることができるかについては、その人の感性に負うところが大きいことを改めて感じた。

「おれ にんげんたち」岡本武司 ナカニシ出版 2004年
アルセニエフのその後が気になって読んだ。彼自身はスターリンの大粛清が始まる前に亡くなったが、彼の家族は不幸な最後を迎えたようだ。「デルス・ウザーラ」は黒沢明が映画化していることを知った。

「極北の動物誌」ビル・プルーイット 2006年
これも星野道夫の本の中で紹介されている。星野は生前わざわざアラスカからカナダまでプルーイットを訪ねている。星野の死後、自ら撮った写真を挿絵として日本語訳を出版したいという遺志をついだ星野の夫人達が出版したものらしい。驚異的に面白い。絶版になっているとしたら、これほど惜しいことはない。星野道夫の極北の自然観の多くはこの本によって形づくられたのではないかとさえ思えてしまうほどだ。

「山への挑戦 登山用具は語る」掘田弘司(岩波新書1990年の復刊)
高校2年生の夏休みにこの本を読んだ。当時はもちろん山などやっておらず、カラビナなんか見たこともなかったのだが、何故か強く印象に残った。もしかしたらこの本が私がクライミングをはじめるきっかけになったのかも知れない。はじめて読んだのは20年も前のことなので、当然ながら内容を覚えているはずはないのだが、新書としての簡潔な文章の中に充分過ぎる程の内容が盛り込まれていることにまず驚かされる。単に忘れていただけで、私の登攀史に対する認識は、間違いなくこの本から出発していたようだ。ママリーに始まり、ブールを経て、チェザーレ・マエストリのセロトーレからトモ・チェセンのローツェ南壁にまでその記述が及んでいる。後半のテントやザックについての章はやや退屈だが、一般向けに書かれたものとしてはやむを得なかったのだろう。それを差し引いたとしても素晴らしい本である。贈り物用として複数冊買い込んでしまった。

「登山の法律学」溝手康史
友人に薦められて読んでみた。法律というものは、万人に適用されるという点で、もっとも一般化された常識と考えることができる。自分が山の中でやってきたことの数々が如何に非常識であたのかということを認識することができた。

「第7級」 ラインホルト・メスナー
タイトルはヴィロ・ベルッエンバッハが規定したⅠ~Ⅵ級の基準を超える極限の登攀という意味である。1969年のひと夏の登攀活動に焦点が中てられている。学生時代に読んでいるはずなのだが、はたしてほとんど記憶になかった。当然のことながら、彼が行ったソロは、加藤文太郎的な単独行ではなく、ごく僅かしかロープ・ソロを挟まないフリーソロに近いものだったのだ。ヨセミテ帰りの西ドイツのクライマー達が鉄のカーテンの向こう側でⅥ級を超える登攀が行われていたことを再発見するのは70年代に入ってからだが、この本の中には終わりの方に「エルプザントシュタイン山群では六級を超える云々」という記述があり、極僅かながらエルベについて触れられている箇所がある。メスナーは東独からの亡命クライマー(ディートリッヒ・ハッセ等)の活躍を指してこう記したにちがいなく、非常に興味深い。Ⅶ級=5.10b~dということで、時代遅れの書物という読み方をしてしまっては、折角の豊かな内容が失われてしまうだろう。

「アルプス・コーカサス登攀記」A.F.ママリー 海津正彦訳 2007年
昨年の暮れ、国会図書館で岳人676号2003年10月「クライミングの歴史と文化」(室井由美子)と同707号2006年5月「30の質問」(同)を複写した。
「岳人」は、ついつい立ち読みか図書館で済ませてしまうのだが、以外にいつまでも心に残る記事が多く、買わなかったことを後になって後悔してしまう。
これらの記事の中で絶賛されていること、前掲の「山への挑戦」の中でも頻繁にママリーが出てくること等から読んでみることにした。幸い、2年前に出た新訳版が図書館にあった。
 「このスポーツの本質は、ピークに登ることにあるのではなく、困難と闘い、それを克服することにある。仕合せな登山者とは、年老いたユリシーズのように好敵手と闘う歓びに酔いしれる人であり、その歓びは、立ち向かう登山者の力を最大限まで強いる岩場を攻撃してはじめて味わえるのである。」 第14章「登山がもたらす歓びと罰について」
自分はもはや困難な山登りなどできないが、ロッククライマーとしてはいつまでも、ママリーの文化的な子孫でありたいと願ってやまない。
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by tagai3 | 2010-01-12 22:27 | 書評 | Comments(0)

特命全権大使米欧回覧実記

第五巻 加利福尼州鉄道ノ記 『山ニハ大木ユタカナリ。世界中ニ喬木多キ地ト称ス「ヨーゼミテ」ト云ウ佳山水アリ。大懸瀑アリ。二百丈ヲ下ル。其ノ景色世界ニ伝テ艶称ス。此レモ又、「シイルラネヴァタ」山ノ一部ニテ、其ノ辺ニ大木ヲ生ス。一大樹ヲ切シ株アリ。其上ヲ広堂トナシ、三十人ヲ舞踏セシメテ可ナリト云ウ。』(岩波文庫版第一巻110ページ)

明治4年(1871年)の岩倉使節団に随行した太政官少書記官久米邦武による同使節団の公式記録。おそらく日本人がヨセミテについて記述した最初の文章。彼らは直接ヨセミテまでは入っていないが、サンフランシスコからストックトン経由の鉄道でシェラネバダ山脈を越える途上で上記の内容を耳にし、記録に残した。マリポサ大隊のヨセミテ「発見」は嘉永4年(1851年)であり、それからわずか20年後のことである。
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by tagai3 | 2009-12-23 09:38 | 書評 | Comments(0)

備忘1

最近になって読み返す機会を持つことができた。極めて示唆に富む言葉に溢れている。

岩と雪168号(1995年2月)
「ボルト問題を考える」ダグ・スコット 海津正彦訳から抜粋
『ハスケット・スミス、・・・ H・M・ケリー、・・・、ピーター・ハーディング、ジョー・ブラウン、ドン・ウィランス、・・・、こういったクライマーたちはすべて、あるがままの岩壁を受け入れ、岩壁をあるがままの姿で残した。彼らは、危険を純化させても、危険を皆無にするようなまねは、決してしなかった。彼らは初めから、クライミング・ゲームの内包する不文律を承知していた。その根本は、自分の命の責任は自分で持つ、つまり、自分の命は自分で守る、ということだ。』
『会場の後方にいた男が、気を悪くしたとみえ、ボルトが嫌なら使わなければいいじゃないか、というような意見を吐いた。・・・ 私たちはクライミングに出かけるとき、程度の差こそあれ真剣勝負を期待している。なのに、そこに2mおきにボルトが打ってあったら、真剣勝負はあり得ない。そんな状況では、これから未知の領域へ踏みだしていくのだという自覚が薄れ、心の高揚を覚えることもなくなってしまう。喜びを自ら否定するようなことが、いったい、どうしてできる。』
『多くの若手クライマーたちには、ひと昔まえのクライマーたちが持っていたような真剣さがないという。クライミングは、他のもろもろの楽しみと一線に並ぶ単なる娯楽になってしまったのだそうだ。・・・』
『私は、1970年代にイギリスで起こったある論争について、ガジェゴに話し、そのときに、学校教師や教育専門家たちによって、私たちのスポーツから危険が取り除かれることを、私たちがどれほど警戒したか説明した。ところが、この地では、それが難なく相手の思いどおりになってしまったようにみえる。』
(注:これについては、「ビヨンド・リスク」250ページに関連した発言がある。以下抜粋。『現在、クライマーの多くは学校からこのスポーツに入ってきています。それはカリキュラムの一部、学校の活動の一部になってしまっています。体育の教師に古い伝統を尊重できるものか疑問ですね。クライミングを据膳で子供たちに出すようなことをしていると、なにもかも変わってしまいます。』)
『道路際の岩場から高山の岩場へ、かつては繋がりがあったが、今それはない。』
『あんな、ボルト連打のフリー・ルートを作ったのはどこのどいつだ?・・・そんな者が、誰かの記憶に残るだろうか?誰も思い出しはしない。誰ひとり思い出すものがいないのは、思い出すに値するものを何も残していないからだ。このルートも、あのルートも、似たり寄ったりなのだ。・・・ そこには、独創性も、想像力も、創意もまるでなく、そこから生まれてくるのは、口先だけのクライミング愛好家ばかり。そんな男たちは、岩への愛に欠けているし、先蹤者への敬意にも欠けている。』
『岩場の環境は、原則的に、何百万年もつづいてきたものをそのままに保つべきだ、ということで意見の一致を見た。言い換えれば、私たちは、クライミングの質を高めて岩に合わせるべきであって、岩を貶めて私たちに合わせるべきではない、ということだ。』
『ただし、体育活動としてのロック・クライミングは体育館内で行うべきだ。そして、戸外の岩場では、本物のロック・クライミング ―危険を伴うクライミングを行うべきなのだ。両者が、同じ環境のもとに両立できる、と考えてきたところに、これまでの誤りがある。』
『ボルトによる安全確実なプロテクションは、体力と勇気の減少の裏返しであり、ボルトの存在が、彼等のクライミングの後押しをしてくれるのだ。おかげで、これまでは登れなかったような難しいルートが登れるようになる。』
『そういうルートには、その時点で取付いてはいけなかったのだ。もっと優秀なクライマーのために残しておくか、自分の技術が向上するまで待つべきだったのだ。』
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by tagai3 | 2009-02-22 11:05 | 書評 | Comments(0)

サーフィン

イヴォン・シュイナードがパタゴニアについて書いた本が出版されている。
通勤電車の中の新聞で目にし、あまり期待しないで買ったのだが、かなり面白かった。
ビジネスマンよりもクライマー向けの本かもしれない。
名クライマーのクライミング以外の人生は、非常に興味深い。
オーガニック関するに環境論は、浅薄ではなく筋金入りである。
いろいろ考えさせられた。名著と呼んで差し支えないだろう。
週末は大人しく本を読んで過ごした。
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by tagai3 | 2007-03-11 23:09 | 書評 | Comments(0)

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