漂石彷徨



名水九割蕎麦

2016年5月29日(日) 晴れ
暑さを覚悟で山梨県南都留郡道志村のさる河原に出掛ける。最高気温28℃、路傍の寒暖計は朝9時の時点で24℃を指していた。駐車場から橋を渡って石を探す。橋の袂の青大将に驚いていたら、小路の落ち葉に紛れて小さいマムシがとぐろを巻いていたのでもっと驚く。行くなら涼しくなってからの方がよい。橋から下流側に約5分で天辺にボルトが打たれた石が見つかる。蚊取線香2巻に点火し、岩の表面をデッキブラシで軽く掃除する。いつもながら殺してしまう蜘蛛や虫には申し訳ないことだと思う。9時30分から登攀開始。来て早々メインの石に直射日光が当たり出しコンディションは良くはなかったが、公開プロジェクトという課題が登れて満足する。11時半撤収。荷物を車に置いてから蕎麦屋で昼食を摂り、帰途に就いた。裏丹沢には時代がかった暴走族が健在であることにいつもながら驚かされる。
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# by tagai3 | 2016-05-31 22:53 | クライミング | Comments(0)

近況2016年4月、5月

4月10日(日) 曇
隣県某所の藪山ボルダーに遊ぶ。10年も経つと林道の様子は全く別ものになってしまうようだ。

4月16日(土) 晴
TVは一昨日来、熊本地震のニュースでもちきり。梅郷の駐車場から愛宕山、要害山、天狗岩、赤ぼっこ、引馬沢峠を経て和田橋まで歩く。3時間若。岩がなくてがっかりする。下山中、猟銃を手にしたハンター集団が大勢いて怖い思いをした。

4月23日(土) 霧/曇
奥武蔵の武川岳に行くつもりが、天気が芳しくないため、付近を逍遥しただけで引き返す。

4月29日(金) (昭和の日) 晴
千葉市美術館に吉田博展を見に行く。やはり版画は秀逸であった。

4月30日(土) 晴
3連休の中日を奥武蔵のボルダーに遊ぶ。ハイカーは通るが静かで良いところであった。
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右から、「ライオン」、「コアラ」、「ゾウ」、「クマ」、「パンダ」、「シマウマ」という課題名?がチョークで記されていた。(より細かくみればシマウマとゾウは右と左に分けられる。)写真は「クマ」で、最も易しい。「シマウマ」の左からSDスタートし「ライオン」に抜けるトラヴァースは面白かった。

5月3日(火) (憲法記念日) 晴
再び同所のボルダー。結露の為か濡れていた。

5月5日(木) (子供の日)
三度同所のボルダー。先日の岩の手前、市の取水口の近くにある2つ並んだ岩の右側のカンテを登る。結構悪かった。
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5月8日(日)
同所のボルダー4回目。後、武川岳まで歩く。

5月14日(土)
同所のボルダー5回目。「ハダカデバネズミ(仮)」登れる。

5月22日(日)
同所のボルダー6回目。「肉布団(仮)」登れる。
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# by tagai3 | 2016-05-22 16:53 | クライミング | Comments(0)

笠間の思い出

4月2日(土)曇り
マナヴさんに誘われて5年ぶりに笠間に行く。当初は城ケ崎に行く予定であったが、伊豆から関東南岸降雨の予報で行先を変更した。古くからの友人と昔なじみの岩場に行くのは実にいいものである。近況や共通の知人のことについて語り合った。震災で大きく様変わりしたと聞いていたが、それ程でもないようだ。二十年近く前に初めて訪れた頃から、今も変わらずに同じ課題を楽しめるというのは、何とありがたいことだろう。岩雪105号によると大黒石にある「パラダイスゲート」の名前の由来は筑波山を追われた初期開拓者たちがここに最後の楽園を見出し、その入口に位置する課題を門になぞらえたことによるのだそうな。言い得て妙かもしれない。
色んな人とここに来て、色んな人と出会った。千葉の怪人シマダさんがここで小用を足していたから「ワシントン倶楽部」なのだと聞いて驚いたときも、確かマナヴさんと一緒だった。始めて「ターゲット」を登れたときはヒーハ君が見守っていてくれた。そんなことを語り合いながら、比較的新しい(?)珊瑚岩からヒップ岩、「ワシントン倶楽部」、「ラブタッチ」、「ウェイ・オブ・ザ・ギル」などを順に触っていった。
マナヴさんが「ターゲット」を登ったのに触発されて自分もやってみる。落ちる気はしないが、やはり楽しい。荷物のところに戻ると写真を取り損ねたマナヴさんががっかりしていた。
「ところで、さっきの会話聞きました?」と聞かれて、最初は何のことかさっぱり分からなかった。聞けば若者数名を連れたガイド風の男にトップロープを使わずに登ったことを非難され、挙句の果てはマットが薄いだの、それを座布団にしていたことについて、全然違う、分かってない、などと言われたのだそうな。
「ええっ?!!!」これには心底驚いた。「ターゲット」はボルダーとして登ってこそ真の楽しさを味わえる課題だとずっと思ってきた。また、マナヴさんのマットは「プッシャー」という米国のメーカーが作っていた「スポット」という製品で、その当時は「薄さ」が大胆さの象徴として、使う人は尊敬の目で見られたものだったが...。
「時代は変わったんですね。でも、決して厭な気はしないんです。お前ら、分かってないなぁってな感じで...。むしろとても貴重な経験をしたというか...。」そういってマナヴさんは笑った。彼は本当に心が広い。自分だったらきっとを喧嘩していただろう。
午後1時過ぎに小雨がパラツキ出したので「エ・モーション」を登って終了。千人溜りの駐車場で日動美術館に寄っていくというマナヴさんと別れて帰途に就く。何はともあれいい一日だったことは間違いない。
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# by tagai3 | 2016-05-22 16:00 | クライミング | Comments(0)

藪の中

名付けて「つぼろライトニング」。次に誰かの目に止まるまでこの印は残っているだろうか。
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尾根上の5m位の石。
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ハイキングコースの途中にある石。中央は出だし悪くⅣ級(ソロバンで9級)位、右はⅤ級(同7級)位か?
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# by tagai3 | 2016-04-04 23:08 | クライミング | Comments(0)

青鬼

朝のうち霧。残雪くるぶし位。岩は濡れていて登れる状態ではないが、折角の機会なので一面の苔と蔦に覆われた石の西面を3時間かけて掃除する。後日再訪。目星を付けたところは節理が皆無でほぼ不可能。やや右寄りは易しいがそれなりに楽しかった。
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# by tagai3 | 2016-02-07 23:00 | クライミング | Comments(0)

猪突

石を求めて藪を漕いでいるとき、突然猪に遭遇し危うく突かれそうになった。急に寒くなったが梅は見ごろを迎えている。前回掃除した石から200mほど離れた斜面に使えそうな石を見つける。掃除2時間超。重要な突起が次々と欠け、正面はかなり難しくなった。右のクラックからスタートして左に斜上するラインも結構悪くて楽しめる。
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# by tagai3 | 2016-02-04 23:14 | クライミング | Comments(0)

鈴鴨

2016年1月10日(日) 快晴
隣県某所。相変わらず季節外れの暖かさ。この日は偶然見つけた石ころを掃除して登ってみた。2か所ほど重要な突起が欠け、うち1回は立木に背中を強打したが、なんとか登ることができた。久し振りに心から楽しめる一日となった。
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2016年1月16日(土) 快晴
再び同所。周囲を探すが、結局使える石は3つだけだった。入り口の岩の蔦を剥がすと天辺に発破の穴があった。縦シワはおそらく割れるときに入ったものだろう。どれも易しいが、クオリティはなかなかでそれなりに楽しめた。
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# by tagai3 | 2016-01-13 22:48 | クライミング | Comments(0)

魔の退屈

目標がなくなると時が漫然と流れて行く。

8月22日(土)
大町山岳博物館訪問。図書館を閲覧させてもらう。戦前の徒歩渓流会の会報の実物を見られたのには感動した。秩父宮殿下の鋲靴、堀田弥一の対山館の宿帳、小谷部全助のピッケル、槇有恒のチョッキなど、ここの展示品はいつまでも見飽きることがない。松濤明の手帳は何度見ても泣けてくる。おまけにスバールバル・ライチョウの飼育施設は無料で見られるのだ。大町に住みたいと本気で思う。

8月23日(日)
ロープウェイ西穂高口~西穂高岳往復ハイキング。人の多さに閉口する。西穂独標周辺の混雑具合は危険を感じるほどだった。ほとんどの人がヘルメットを被っていて、被っていないと白い目で見られる。高齢のガイド(?)が高齢の客をタイトロープにつないで歩いている様は滑稽を通り越して慄然とさせられるものがあった。往復約6時間の歩行。霧のため眺望ほとんどなし。

9月20日(日)
裏御岳は湿気が籠ってびしょびしょだったので鳩ノ巣に行く。ようやく河原への降口を見つける。猪木岩は下地が流水になっていて登れるような状態ではなかったが、無理して「袈裟切り」という1級の課題だけ登った。リーチ系で苦手なタイプ。5回もかかってしまった。この日の青梅は最高気温28℃最低気温19℃、湿度はかなり高めだった。

9月21日(月)敬老の日
小河内ダムから水根集落を経て鷹巣山に登り倉戸山に下りた。

9月23日 秋分の日
奥多摩某所。SDから右トラヴァースして右上に抜けるラインに取組む。最後のマントルが返せず敗退。ボルダーの手数を増やすには、持久力ではなく最大筋力を上げねばならない。(7:00-8:30)

10月11日(日)~15日(木) 夏季休暇
四国旅行。12日剣山、13日高知、14日石鎚山、15日大洲、卯之町。

10月19日(月) 有給休暇
御岳①。以前はアップとして登っていた「エゴイスト」が登れなくなっていて、ひどく落胆する。

10月24日(土)
神津牧場と荒船山。艫岩が立派だったので氷の練習をして登りに来たいと思うも、暖冬のため今年はその願いは叶いそうにない(12/27記)。

10月25日(日)
御岳②。7:00-8:30。前日の疲労抜けず、この日も「エゴイスト」登れず。

11月1日(日)
御岳③。6:30-8:30。えらく苦労して「遥」を登る。おそらく10数年ぶり。ムーヴやホールドは完全に忘れていた。往時は確か3回目くらいで登れてしまい、易しいイメージさえあったのだが・・・。自分のリーチでは立った状態でスタートのサイドプルに届かず、デッドポイントで跳び付かなければならない。各ホールドも一見効くように見えず、効く場所を見つけるまでにそれぞれ数回の試登を要した。この日も「エゴイスト」登れず。デッドポイントを止めた後の最後の一手が添えられぬまま、指に穴を開けて撤収。帰宅後、近所の河原を少し走る。

11月21日(土)
大菩薩嶺ハイキング

11月22日(日)
御岳④。7:30-9:00。小雨の中、「エゴイスト」と「遥」を登ることができたのでいくらか満足する。「遥」から「エゴイスト」につなげるラインに取り掛かるが、合流するところの精度悪く敗退。夜、船橋で後輩達と飲む。

11月28日(土)
御岳⑤。7:30-9:30。先客2人。ようやくほぼ完全な精度で「エゴイスト」に合流できるようになってきたが、デッドポイントが止められない。自分のムーヴではどうしても13手必要なので、登れるようになるまでには少々時間がかかるかもしれない。止まらなくなった咳が気掛かり。

12月10日(木)
年末を前に実家の整理のため有給休暇を取得し、作業前に御岳へ。御岳⑥。9:45-11:15。先客1人。「エゴイスト」を登り感覚を確かめた後、つなげにかかるが、最後のデッドポイントを止めた後の2手が続かない。エッジにマーキングして15分余り休憩した後、レスト間隔を短くして3回続けて登り、ようやく最後にマグレのように止まって登ることができた。直ちにマーキングを消して撤収。当然ながら、午後からの作業の方がずっと疲れた。

12月12日(土)
丹沢二ノ塔尾根~三ノ塔ハイキング。

12月19日(土)
裏御岳。

12月23日(水) 天皇誕生日
筑波山ハイキング。

12月26日(土)
隣県某所のボルダー。久し振りに藪をこぐと非常に疲れる。易しそうに見えた庇状のハンドクラックが思いの他悪くて楽しめた。総じて、もう少し下地が良ければいうことはないのだが。
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# by tagai3 | 2015-12-01 22:49 | 徒然 | Comments(0)

或る八十周年のこと

劔岳八ツ峰六峰フェイスのどこかに先輩達のルートがあるらしいという話は以前にもどこかで聞いていたはずだが、ほとんど記憶に残らなかった。理由は、東京から遠く割高になる交通費、丸1日がかりのアプローチ、雪渓通過の煩わしさに加え、壁のスケールが小さく、技術的にも易しいといった要素などから、登攀対象としての興味をそそられなかったことによる。そのような無関心が何年も続いたが、東日本大震災や原発事故、母校山岳部の百周年行事などを契機に歴史の本を読むようになってから、概略次のようなことを知り、以来、そのルートのことが頭から離れなくなってしまった。

大抵のルート図には初登者名が併記されている。Cフェイス「劔稜会ルート」にもそれがあり、記載されている名前は当然その団体のメンバーだろうと思い込んでいたのだが、実は彼らは戦前の山岳部を代表する人々で、その中には加藤喜一郎の「山に憑かれた男」に出てくる「タコさん」まで含まれていたという事実を知ったときの驚きは大きかった。まさか有名な「劔稜会ルート」がそのルートだとは思ってもみなかった。

今年はたまたま山岳部の百周年であると同時に同ルートの初登攀八十周年にも当たる。このルートは現在、その位置関係や眺望の良さから初心者向けの好ルートとしてそれなりに評価される一方で、どこでも登れる退屈なルートという芳しくない評価も受けている。果たしてどちらが本当なのか、この機会に確認してみたくなった。

初登記念日の7月20日は「海の日」に当たる。この日は例年夏休み入りと梅雨明けが重なり、行楽地はどこも非常に混雑する。また、直前までの長期予報では長梅雨と夏の天候不順が予想されていたことから、その前後いずれかの週末に出かける計画で準備を進めた。登攀に当たっては、諸条件をできるだけ初登時に近づけるため、ロープは持参せず、靴も23年前に四谷の「山友社たかはし」で買った皮の登山靴のみとすることを決めた。単独行になったのはこの山行に興味を持つ同伴者が見つからなかったことにもよるが、容易過ぎるグレードに多少なりとも負荷を掛ける目的があった。だが、登攀よりも気掛かりなのは気胸を患った後の脆弱な体力で長時間の水平移動に耐えられるかどうかということだった。はたして2日間で劔岳の山頂を踏んで帰って来ることができるだろうか。

7月10日の夜に扇沢に入り、翌朝トローリーバスの始発で室堂に向かう。ロープウェイの大観峰駅から雄山を望み、大学4年の春のことを思い出した。劔岳もそれ以来なのでちょうど20年ぶりとなる。臨時便のおかげで予定よりも早く室堂に着き、9時に出発することができた。荷物は水なしで13キロ余り。2時間半足らずで長次郎谷出合着。それなりのペースに気をよくしたが、急登にかかると途端にスピードが落ち、結局、出合からCフェイス取付きまでの時間はコースタイムと大差なかった。熊の岩周辺から見上げる六峰は中間部が実際よりもかなり立って見える。左側のリッジはブッシュも少なく、上部の稜線が鋭く尖っている様は周囲の岩峰の中でも一際目を引いた。
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取付きでの20分の休憩後、雪渓上から一段上の段差に乗り移って登攀開始。堅い登山靴を確実に乗せるため、できるだけ大きくて水平なスタンスを探す。当時の記録に足回りの記述はないが、雪訓主体の合宿内容から考えれば、おそらくはフリクションの乏しい鋲靴で登っていたに違いない。それに比べれば格段に登り易いはずなのだが、片足だけでも1キロ近くある革靴の重さと足裏感覚の乏しさに苦労する。日頃如何にフラットソールのフリクションに頼っていたかを痛感させられた。動作の選択肢は自ずと狭められ、必然的に最も合理的な岩の弱点をたどる形になる。岩は総じて堅いが、浮石も少なくない。不用意な動作でバランスを崩さないためにも、意識的な三点支持を心掛けた。
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ルートはまず右にバンドを辿った後、更に大きなバンドに導かれて左に向かう。動作は極めて易しいが、取付きまでの歩行による疲労が抜けきらず、数メートルごとに立ち止まって呼吸を整えなければならなかった。下部草付き帯の左端にある5メートルの凹角はこのルートで初めてアウトオブバランスが出てきた箇所として印象に残った。

中間部のフェイスから傾斜はやや急になる。より大きな節理を求めて左に寄り過ぎると岩は脆い。細かなエッジを拾って上部のホールドに手を伸ばす部分が何箇所か出てくる。その辺からは長次郎雪渓の雪面が眼下に広がり、かなりの露出感が出てくるが、そうした個所には決まって古いピトンが多数残置されていた。初登時にはピトンではなく、ハイ松や岩角で確保を取ったと考えられるため、これらはおそらく後年の再登者たちが心理的な理由で打ったものにちがいない。多くの再登者たちが自然に同じラインに導かれ、その多くが同様の感想を持ったとすれば、それは非常に興味深い。

フェイスの中ほどで突然足がつりそうになり、少し慌てる。歩行による疲労と脱水が原因だろうか。しばらく動きを止めてやり過ごす。普段は気にも留めないが、高度感の裏側には厳然として恐怖感が存在したことを改めて意識した。40メートル足らずのフェイスがやけに長く感じられた。

登るにつれてリッジは鋭さを増し、登路も自然にフェイスからリッジに移っていく。これほどリッジらしいリッジもそうはない。登りつめたところが有名なトラバースで、ルートはそこで文字どおりの大詰めを迎える。長さは短いが景観は素晴らしい。リッジに馬乗りになったまましばらく眺望を楽しんだ。

そこから水平クラックをたどり、右側のフェイスに移ると露出感もかなり軽減される。峰頂まであとわずか。一歩一歩慎重に歩みを進める。最後の段差を越えたとき、ルートの素晴らしさと無事に登れた喜びが胸に迫り、三先輩への畏敬の念が湧き上がってきた。コモリさん(小森宮の通称)の実力は本物だったのだ。このような感情は少々複雑で、一般の方に理解してもらうには若干の説明がいるかもしれない。

このルートの初登攀は今から80年前の昭和10年7月20日、総勢25名で行われた夏期合宿のある一日に当時5年生(21歳)の小森宮章正、3年生(21歳)の井形健一、2年生(19歳)の山本雄一郎の3名で行われた。日程は13日に富山から芦峅寺経由で入山し、16日から22日まで三田平に定着、22日に五色ガ原に移動後、小森宮以下の下級生10名は針ノ木峠経由で24日に大町に下山、井形・山本を含む相馬順三(当時4年生)以下の15名は太郎兵衛平経由で槍ヶ岳まで縦走し、28日に上高地に下山するというものだった。

小森宮は谷口現吉(八ツ峰上半部積雪期初登、第二次マナスル登山隊副隊長)の次のリーダーで、西穂の高所露営や厳冬期の早月から八ツ峰上半部の極地法登山などを主導した。岩登りにも注力し、谷川岳一ノ倉沢第四ルンゼの初登攀翌年の再登(昭和8年)や槍ヶ岳北鎌尾根千丈沢側稜の開拓(昭和9年)等を行っている。井形は小森宮及び相馬らの後のリーダーとして厳冬期の西穂から奥穂への極地法登山などを成功させた。文章の巧みさは「登高行」歴代執筆者の中でも屈指のものだろう。山本は同部5年来の課題だった厳冬期の早月から八ツ峰下半部及び源次郎尾根までの極地法登山を完遂させたリーダーで、後年「岩に吸い付くような大きな手と柔軟な身体で巧みに岩を登る」名手としても知られるようになる。前述の「タコさん」とは、この山本のことである。

彼らの業績の大半は極地法等の集団形式であったため、前時代を不当に蔑む傾向が強い現在の日本登山史の記述の通例では、ほとんど無視に近い低評価を受けている。だが、地理学的にも生理学的にも未解明の課題が無数に残されていたヒマラヤ登山を究極の目標としていた時代に最も合理的とされた先端技術習得を目指すのは至極当然のことではなかったろうか。食糧から装備に至るまで、あらゆる問題を自分達だけで解決していったこと自体が、まぎれもないパイオニアワークだったのだ。

私が40分で登ったところに彼らは5時間半もかけているが、初登時の記録からは当時標準的だった30メートルロープに3人を連結したため、1ピッチに伸ばせた長さが8メートル程度であったことや末端を確保用に切断し、これが更に短くなっていたことがうかがえる。その上、ザックの荷揚げまでしていたのであれば、それだけ時間がかかって当然だろう。所要時間だけで彼らの登攀能力を低く見ることはできない。

良いルートの条件が攻撃的であると同時に最も合理的に弱点を突いていることだとすれば、これほどその条件に合致しているルートは珍しい。何故なら、Cフェイスで最も攻撃的で「怖い」ラインが左端の切れ落ちたリッジであることに疑問の余地はなく、合理的という点は三級を越えないピッチグレードがそれを証明している。ピークディストリクトにある古い英国のルートを彷彿とさせるような風格すら漂わせている。

前述のとおり、井形と山本は同部の黄金時代を代表するリーダーとなり、登攀を通じて「経験の若い二人に岩登りの面白さを伝える」という小森宮の思いは十二分に達成された。その後、小森宮が伝えたバトンは山本を介して加藤喜一郎に引き継がれ、やがてはマナスルやヒマルチュリの初登頂という形で結実するのだが、むしろ初心者向けの好ルートを後世に遺したことの方がより大きな功績だったのかもしれない。
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Cフェイスの頭で小憩。三の窓側の風景を楽しみながら三先輩を偲び、彼らに黙祷を捧げた後下降に移る。当時の記録にもあるとおり、五六のコルまでは一般縦走路と大差はなく、途中にいくつも現れる下降支点の設置意図は理解しかねた。現代の標準的な登山者の技術は歴史的にも例のない水準まで低下しているのだろうか。もしそうなら「リッジルート」を登った者のうち、はたしてどれだけの人々がルートの良さを理解し得たのか少し不安になった。

五六のコルの直下は幾筋ものシュルンドが走り、通過に苦労した。そのうちのひとつを飛び越えたとき、ミシッという音とともに着雪面が崩れて肝を冷やしたが、そのシュルンドは底が浅く大事には至らなかった。熊の岩を上から巻いて長次郎谷左俣左岸側を進み、約1時間で長次郎のコル着。明るいうちに真砂沢ロッジに着くにはゆっくりしていられないので直ちに北方稜線の縦走路を歩き始めるが、疲労のためにスピードが上がらない。17時半過ぎ劔岳山頂着。この時間ではさすがに誰もいなかった。眺望は素晴らしく、夕陽に輝く黒部川が彼方の富山湾に向かって流下していくのが一望できた。5分余りで山頂を後にする。長次郎のコルからはグリセードを交え、登りに3時間かかった雪渓を40分足らずで駆け下る。

日没直前に真砂沢ロッジ着。親切なご主人は営業開始前との理由で幕営代の受け取りを拒み、残雪を心配してハシゴ谷乗越しを経由し黒部湖に至る道を丁寧に教えてくれた。翌朝早くに真砂沢を立ち、正午黒部湖着。ダムのゆるキャラ「クロニョン」と妻に迎えられ、今回の山行は終了した。途中行き交った登山者は2人だけで、長次郎谷にも人影はなかったにもかかわらず全く孤独を感じなかったのは、終始三先輩のことを考えていたからかもしれない。
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最後に三人のその後について。小森宮は昭和12年卒業。学士入学で1年間大学に残りヒマラヤへの機会を待つが果たせず、翌年退学し家業の宝飾品店を継ぐ。昭和13年12月応召。昭和15年4月3日、急性肺炎のため奉天陸軍病院にて戦病死。26歳の若さだった。井形は昭和14年卒業。地元九州の三井鉱山会社に入社するが程なく召集され、昭和14年12月入隊。朝鮮での初年兵訓練中に小森宮の訃報に接し、その後旧満州から中国各地を転戦。戦後は三井鉱山に復職するが、三池争議が激化の兆候を見せる中、昭和34年3月5日病死する。享年44歳。山本の卒業時期は判然としないが、昭和17年1月の応召時には既に渡満し、丸昌洋行という会社で働いていたらしい。戦時中は宣撫工作を担当する部隊に所属。敗戦後はシベリアに抑留され、昭和21年3月18日チフスのため収容所で病死した。享年29。遺体の埋葬地は現在も不明のままである。加藤喜一郎は前述の著書の中で山本の最後に思いを馳せ、過酷な収容所生活の中で部下を庇い、激しい労働を進んで引き受けたために命を落としたに違いないと推測しているが、後に山本の最後を看取った戦友が遺族に伝えた話としてそれが事実であったことが明らかになる。三人はいずれも軍務に就き、うち二人は文字通り戦陣に散り戦禍に斃れた。今年は同ルートの初登攀八十周年であると同時に戦後七十年にあたる。その年に彼らの足跡をたどったことにはそれなりの意義があったのではないかと思っている。
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# by tagai3 | 2015-09-06 11:53 | クライミング | Comments(0)

歩き

5月31日(日)
筑波山(薬王院から)

6月28日(日)
御前山(小河内ダムから大ブナ尾根経由)

7月11日(土)、12日(日)
劔岳、八峰六峰Cフェイス「リッジルート」(所謂「劔稜会」ルート)

11日
室堂発(9:00)別山乗越(10:40‐50)長次郎出合(11:30‐12:00)Cフェイス取付き(14:05‐25)Cフェイス頭(15:05‐20)五六のコル(15:40‐50)長次郎コル(16:50‐17:05)劔岳山頂(17:35‐40)長次郎コル(17:55‐18:00)長次郎出合(18:40‐45)真砂沢ロッジ着(19:00)

12日
真砂沢ロッジ発(5:20)ハシゴ谷乗越(7:00‐10)内蔵助平(8:20)丸山東壁1ルンゼ押出(9:30‐40)黒部川内蔵助谷出合(10:15)ダム下の橋(11:15)黒部ダム着(12:00) 

7月18日(土)
大岳山(海沢園地から海沢探勝路経由)

8月9日(日)
日の出山(二俣尾から三室山経由)
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# by tagai3 | 2015-08-10 22:38 | 徒然 | Comments(0)

岩登りについての所感