啓示をうけたボルダラーにとって、ジョン・ギルという名前は特別な意味を持っている。それは革新とパワー、スタイルと専心を表す。ギルの課題はカルト的な領域に達し、このスポーツにおいて最初の伝説的な人物が設定した基準で自らの力量を試そうと世界中から多くのクライマーが訪れる。ギルの貢献は余りのも巨大であったため、「マスター・オブ・ロック(岩の達人)」というそのタイトルにふさわしい伝記が編まれている。(原注:パット・アメントによる「マスター・オブ・ロック」には1977年の初版とこれに新たな内容を追加し、増補改訂した第二版がある。ともにジョン・ギルの人と人生について詳しく知るために推薦できる。77年版が彼のボルダリングに焦点を当てているのに対し、92年版はボルダリング以外のクライミングとそこから離れた彼の人生そのものに焦点を当てている。訳注:第二版以降に邦訳はないが、「岩と雪」第159号(1993年8月)に初版(「ジョン・ギルのスーパーボルダリング」森林書房1984年10月)の訳者平田紀之が書評を寄せている。また、「ストーン・クルセイド」出版の4年後には、改訂第三版「ジョン・ギル マスター・オブ・ロック」(1998年5月)が上梓された。)今日の我々のボルダリングに対する見方について、ジョン・ギルほど巨大な影響をもたらした人物は他に存在しない。
ギルは1953年にアラバマでクライミングを始めた。友人にこのスポーツを紹介された時、彼は高校2年生だった。クライミングについての最初の知識はほぼ全て米国山岳会編の「アメリカ登山ハンドブック」とブリタニカ百科事典の「登山」の項から得たものだった。後者には重すぎる登山靴を履いた山岳ガイドが露出感のある崖を登る写真が載っていた。この写真がギルの想像力に火を点け、最初の彼の関心はロープを使ったクライミングに向かった。
ギルはたちまちクライミングの虜になった。「それは驚嘆するほど素晴らしく、自分の人生の全てが突然絡め捕られたように感じて、そこら中の岩々を巡り歩くようになった。クライミングの印象はそれほど鮮烈だった。」とギルは言う。「当時の自分にとって、難易度にはほとんど何の意味もなかった。すべては困難で危険に満ち、同時にそれまで経験したこともない冒険的でエキサイティングな生き方だと感じられた。」
大学でギルは体操のコースを履修した。6フィート2インチ(188cm)の体格は、床競技に不向きだったため、彼はロープ登り(当時は大学対抗競技会の正式種目だった)と吊り輪に集中した。直径1インチ半(3.81cm)のロープ登りを通じて、彼は爆発的な上半身の強さを身につけた。座った状態から足を使わずに、彼は規定の20フィートの高さを3.2秒で登ることができた。当時の世界記録に0.6秒劣るものの、素晴らしい記録である。吊り輪は彼の肩と後背筋を鍛え上げるのに役だった。「マスター・オブ・ロック」の中でポール・メイローズは次のように述べている。「彼が少し動くたびに、それらは躍動し盛り上がった。」ギルは反転十字懸垂ができ、特にバタフライ・マウント(体操選手が吊り輪に真っ直ぐぶら下がった状態から腕を真横に開いた十字懸垂の状態まで体を上げるとともに、両足をL字状に真っ直ぐ上げた後、両腕が床と垂直になるまで脇を締めていく技。)が得意だった。彼は2回続けてそれを行うことができた。
1950年代半ばから終わりにかけて、クライミングの動作はいわゆる三点支持を基本に静的に行われていた。動的な動きは制御不能の状態に陥った技術の劣るクライマーが苦し紛れに行う悪い見本とみなされていた。その当時、ギルはクライミングと体操の両方に強い関心を抱いていた。ギルは当時のクライミングの水準を観察した結果、クライミングと体操競技の2つのスポーツが身体運動としては極めて似通っているにもかかわらず、その動作について言えば、クライミングが体操競技の水準からはるかに劣っていることに気づいた。ボルダーに集中すればクライミングの難易度の水準を著しく進歩させることができるのではないかと考えた彼はボルダーについて体操的技能を発揮する対象として捉えた最初の人物となった。
こうした新しい考え方の下で彼が最初に取り組んだボルダーはティートン山群ジェニーレイク湖畔の3つの小さな花崗岩の塊だった。1957年と1958年に彼はここで当時行われていたどんなロープクライミングよりもはるかに難しい複数の課題を設定した。また、その翌年(1959年)にはレッドクロス・ロック東面の手がかりの乏しいバルジへの挑戦を開始する。バルジの下の胸の高さの位置にある割れ目は左手で掴めるが、右手で掴めるホールドはまったくなかった。左足の爪先で小さなエッジに立ち、右足で地面から飛び跳ねるスインギング・レイバックにより、右手が岩の上辺部の縁に届いたが、最初の試みは失敗に終わった。何度目かの挑戦の後、彼の指先は天辺から5フィート半程下の飲料瓶キャップよりもわずかに大きい小突起をピンポイントの軌道で捉えた。こうしてジョン・ギルはボルダリング史上で初となる困難でコントロールされたダイナミック・ムーヴに成功した。(訳注:現在この課題のグレードはオリジナルムーヴでV9、後年出現した中継ホールドを使ってV7とされる。)
ギルの登攀歴は3つの期間に区分することができる。1957~61年の第一期(3年間)、1961~70年の第二期(10年間)、1972~87年の第三期(16年間)である。そのボルダリング歴を通じて彼はクライミング界が規定した外的規範を顧みず、自らの発想に従い、如何なるものでもその時々で最も満足感が得られる登攀スタイル、すなわち、彼がいうところの”垂直の道”をたどった。
第一期に彼はフォームよりも難しさに関心を向け、ダイナミック・テクニックの実験を行うだけでなく、パフォーマンス改善を目的とする禅の瞑想やリラクゼイション法の修得にも取り組んだ。その期間を通じ、ティートン、ニードルズ、デビルズ・レイクや中南部各地で膨大なクライミングを実践する一方、多様なスタイルについての実験を試み、機能したものを残し、そうでないものを捨てていった。クライミングでの体操用チョークの使用を開始した他、ピトンハンマーによるホールドの拡張まで行っている。「50年代のボルダリング」(クライミング・アート誌第7号(1988年1月)というエッセイの中で、彼はこの珍しい事件をきまり悪げに回想している。「それは1959年、デビルズ・レイクで起きた。そのライン(訳注:ウィスコンシン州の章にマスター・オブ・ロックにも写真が出ている「リトル・フラットアイロン」とある。現在のグレーディングはV4とされる。)の成功の可否が自分だけの憶測の域を出なかったことが唯一の言い訳だが、それが当時も今と同じように、非倫理的で恥ずべき行為であったことに変わりはない。もしあの瞬間に自分自身の衝動を抑え、より適切な時期に再訪できていたら、あのルートは真に自分自身のものになっていただろう・・・」これに気づいたギルが同じ過ちを繰り返すことは二度となかった。
ギルはボルダリングを孤独の中での修練に最も適したスポーツと考えていたが、しばしば他の仲間ともボルダリングを共にしている。第一期の重要なパートナーとしては、イヴォン・シュイナードとリッチ・ゴールドストーンの二人を上げることができる。シュイナードを観察することで、彼は所与の課題に対し常に異なるアプローチの方法が存在することを学んだ。5フィート4インチ(162.6cm)の小柄でパワフルなシュイナードがより身長の高いギルと同じシークエンスを用いることはめったになかった。ゴールドストーンについてギルは極めて滑らで優雅に登り、当時の仲間の誰よりもボルダリングを真剣に捉えていたと評している。
ギルは自身の身体能力や特殊技能に相応しい課題を探し出すとともに、身体的な快感を得られる課題を探し求めた。オーバーハングした岩と切り立ったバルジは彼の長いリーチと力強いスィンギング・ムーヴにぴったりだった。かといって、彼がフットワークに無頓着だった訳ではなく、必要であれば、難しいスラブ課題を征することもできた。
ギルはこの時期にある種の評判を獲得する。ある者は彼の課題の難しさに強い印象を受けた。ギルは当時、それらの多くを登れる唯一の人物だった。ある者は彼をただのボルダラーとして切って捨て、またある者は彼が「変わり者」で、折角の才能を取るに足らない対象に空費していると考えた。ギルが他者の評価を気にすることはほとんどなかったが「マスター・オブ・ロック」(1977年)の中で、当時のことについて次のように語っている。「とにかく何か本当に充実したものを作り出したい、本当に重要な登攀を成し遂げたいと感じたのだ。」
やがてギルはサウスダコタ州ニードルズの30フィート(約9メートル)の尖塔に取り憑かれるようになる。珪質結晶の混ざった北東壁が全面にわたってオーバーハングするその尖塔は「スィンブル」と呼ばれていた。核心は課題の上半部から始まる。基部に設置された木製のガードレールが、この課題の特徴である恐怖感を一層高めた。仮に課題の下部三分の二のムーヴのいずれかで落ちれば、彼はこのガードレールに叩き付けられたことだろう。上部三分の一からであれば、ガードレールは避けられるが、極めて長い墜落の衝撃による負傷は避けられない。3回から4回にわたり、ギルはこの課題に挑むためにモンタナ州のグラスゴー空軍基地から500マイル運転してきた。リスクを伴うため、この課題はギルの他のどのルートよりも事前準備が求められた。そのために彼は激しいトレーニングを実行し、ルート上で遭遇するだろう突起状のピンチホールドに対応するため、ボルトとナットを摘んだ懸垂を行った。彼は絶好調で、戸口の側柱を使わずに連続3回の片腕懸垂を行うこともできた。
1961年の春、鋭いエッジや脆いノブをつかみ、身体が振られるムーヴに耐えて、遂にギルは「スィンブル」の頂に立った。以来、「スィンブル」は世界で最も有名なハイボルダーのひとつとなる。ロープなし、リハーサルなしの再登を迎えるまで、更に数年代の期間を要したが、その頃には既に心理的障害となっていた基部のガードレールは撤去されていた。この登攀は彼の評価を更なる高みへと押し上げ、彼を批判する者達を沈黙させた。この課題を試みた者、否、一度でも見上げたことのある者が彼を「単なるボルダラー」と呼ぶことは二度となかった。(訳注:現在のグレードではV5、最有力視される第二登の記録は1981年のグレッグ・コリンズによるもの。ジョン・シャーマンの再登が一部の山岳雑誌に初と誤報されたという記述がシャーマン自身の著作やマスター・オブ・ロック第三版にある。)
多くのハイ・ボルダラーが「スィンブル」をアメリカで最も印象的な課題と考えている。だが、ギルはこう言う。「スィンブルは私にとっては真のボルダー課題とはいえない。あれは少々高過ぎで、危険過ぎる。課題の中でダイナミック・ムーヴを使った記憶もほとんどない。私にとっての真のボルダリング・ムーヴはダイナミック・ムーヴだ。あの頃はそれがどんなに難しかろうと、スタティック・ムーヴを含む課題はたとえそれがボルダーの上で行われようと、ミクロ・クライム(矮小登攀)だと見なしたものだ。」ギルのボルダリングの定義では、リスクの極小化、ダイナミック・ムーヴ、(1960年代の基準による)B1以上の技術的難度が強調されるが、スィンブルには最後のひとつしかない。
「スィンブル」の登攀はギルの登攀歴第一期の終わりを告げるものとなった。その年のうちに彼は空軍を除隊して結婚し、アラバマで数学の博士課程に進むことになった。彼のボルダリング歴第二期は、家族(彼の娘は1965年に誕生する)と仕事への関心がより多くの時間を占めるようになる。だが、この9年間においても、ボルダリングは彼にとって重要な心のはけ口となった。ボルダリングに出掛ける時、彼は日常の心配事を忘れ、それらの替わりにクライミングの身体的な刺激と周囲の自然の美しさに集中することができた。オフィスでの卒業論文執筆等の感覚的欠乏状態から、彼はボルダリングに行くことで認知感覚が高まることにすぐに気づくことができた。空はより青く感じられ、岩との際限はより鮮明に引き立って見えた。この期間を通じ登攀フォームとスタイルはギルにとって一層重要なものとなっていった。
彼はアラバマからケンタッキー州マレーに移り、マレー州立大学で数学を教え、主にイリノイ州南部のディクソン・スプリングスで登った。1967年に彼はコロラド州立大学での数学の博士号取得のためにフォートコリンズに移る。ここで彼はもう一人のクライマー兼体操競技者のリッチ(リチャード)・ボーグマンと出会う。ギルはボーグマンの目をボルダリングに向けさせホーストゥース貯水池のボルダーの可能性の開拓を共に手掛けることになる。
ギルはホーストゥースで彼の最も有名な課題のいくつかを生み出した。メンタルブロックとエリミネーターは世界で最も有名な課題となっている。メンタルブロックの「左」(コーナーロック)、「中央」(標準ルート)、「ピンチルート」の3本のクラッシックは、すべて試み始めたその日に登られた。ギルはその際にトップロープを使ったが、当時の下地が落ちれば骨折は確実な状態であったことには触れておくべきだろう。後年、クライマーたちはテレビジョン・サイズのブロックのほとんどを撤去し、整地を行っている。それでも尚、多くのクライマーが今もこれらの課題を登るためにトップロープを使用している(訳注:これが書かれた1993年当時、クラッシュパットは未だ一般的なものとして普及していなかった。)。
その当時、ギルはほぼ唯一の真剣なボルダラーだった。パートナーが現れることはほとんどなく、自分の課題に興味を持ったクライマーにラインを示すため、彼はメンタルブロックとエリミネーターの取り付きに2インチ程度の小さな白い矢印を描いた。「このスポーツを育てたかったし、自分と同様にボルダリングに興味を持つ仲間が欲しかった。」1979年にギルはクリス・ジョーンズにこう語っている。「それは最前線を行くロッククライマーに興味を抱かせる唯一の手段だった。課題にグレードをつけ、小さな矢印を描いた。あんなことは間違いなくもうやらないよ。」他のクライマーがギルに対抗するために自分の新たな課題にチョークで矢印を描いたという話を聞いたときギルは思わず哄笑した。
ギルが開拓したコロラド州北部のエリアはホーストゥースのみに止まらない。エステス・パークではヘイガーマイスター・ボルダーを登り、ロッキーマウンテン・ナショナルパークではランピーリッジ沿いの孤立したボルダーを登った。スプリット・ロック、フラッグスタッフ・マウンテン、エルドラド・キャニオンにも足跡を残した。この時期に彼はパット・アメントと出会う。ボルダー市出身のクライマーで体操家でもあった彼はギルの親しいボルダリングパートナーとなり、やがてはギルの伝記作家になると同時に生涯の友となった。
ギルは彼自身の体操的な技能が1960年代半ばには衰え始めたというが、彼の強さは依然として目覚ましいものだった。彼は片腕で目一杯伸ばした全身を地面と水平にして一時的に保持する片腕フロントレバーの能力を磨いた。右腕で連続7回、左腕で連続6回の片腕懸垂ができ、鉄棒であれば片腕一本指懸垂も可能だった。最も驚くべき能力は表面の粗い横桁を片手で摘んだまま片腕懸垂をしたことだろう。多くのクライマーにとってギルのストレングス・トリックを真似ることは彼のルートを登るのと同様の目標となった。1969年のアメリカン・アルパイン・ジャーナル(訳注:米国山岳会年報。日本山岳会の「山岳」に相当する権威ある機関誌。)に掲載された「ボルダリングの技術」でギルは次のような視点を提示する。「上半身の基礎力は、フロントレバー、片腕懸垂、腕だけの蹴上がり、片腕マントル等で鍛錬する。ある特殊技能の鍛錬には吊り輪を使ったバタフライ・マウントや片腕フロントレバーが求められる。」ギルは続けてこう言う。「専門的ボルダラーは様々な幅の桁を使った懸垂で握力を鍛え、ドアの鴨居を使った片腕一本指懸垂でトレーニングする。」そしてここに免責条項が続く。「これらのエクササイズの全てを行う能力がボルダリングに必須という訳ではないが、これらの能力を顕示させることは、彼らのスキルにある種の磨きを掛け、クライミングに精巧さを付与し、その性質としてある種の特殊技能が求められる極限の課題を解決する際の一助となる。」ギルの力の曲芸は、再登を許さない彼の困難な課題の数々と相俟って、その評判を高めるとともに、場合によっては、神ならぬ普通の人にはボルダリングはとても無理だと感じた一部の人々を怖じ気づかせてしまった面があったかもしれない。
自身のクライミングスタイルを他のクライマーに説明するため、彼は数多くのエッセイを書いている。「ボルダリング技術」の中で、彼は自身が行うゲームについて定義している。彼はそれを「基本的には極度に困難な動きが強調された1ピッチのロッククライミング」と呼んだ。彼はまた、次のような哲学を前面に押し出した。「ボルダラーは登攀の正否と同様かそれ以上に登攀フォームに関心を向け、彼がそれを優雅に登るまでは真にその課題を解決したとは感じない。」ギルは新たなグレーディングシステムとしてBシステムを提唱し、彼が従来の練習登攀とボルダリングとを明確に区分できると感じる難易度にB1(1969年当時のロープを付けた登攀における最高難度である5.10のムーヴ)を付けた。彼はダイナミック・ムーヴについて語り、おそらくはクライミングの文脈の中で「デッドポイント」という言葉を使った最初の人物となった。
「ボルダリング技術」では、また、体操的な追求の対象としてのボルダリングを提唱している。ある人は彼のこのエッセイについて、もし彼がこのスポーツの第一人者として振る舞っていたなら、以後30年にわたりこのスポーツの在り方を規定することもできたに違いないとして、高く評価する。しかしながら、ギルの文章は時として彼の数学の証明のように濃密で難解であるとされた。多くのクライマーがギルの文章の冗漫さに足を取られ、そのエッセイの要点を見失ってしまった。多くの専門家にとってこのスポーツを定義したのは彼の文章ではなく、彼のボルダー課題だった。ギルのルートや彼が登る写真を目にしたクライマーは、それこそがボルダリングだと理解し、ギルのテストピースの再登若しくは同程度に困難な彼ら自身の課題の初登に血道をあげるようになった。ギルと同様に登攀フォームにも同等の関心を向ける者はほとんどいなかった。
1970年、ギルはいわゆるクライマー肘の最初の症状におそわれる。痛みのため彼は一年もの間クライミングから遠ざかり、これによって彼のボルダリング歴第二期が終焉を迎えることになる。
ギルがクライミングを再開したとき、彼は両腕懸垂4回がやっとの状態だった。その時は彼自身、ボルダリングの世界に戻りたいか否か分からなかった。彼にとってそのスポーツは余りにも有名になりすぎていた。コロラドはボルダリングの黄金時代を迎え、多くのクライマーがボルダリングを過剰なまでに真剣に捉えるようになっていた。ボルダラー達が課題の困難さばかりに執着すればするほど、競争は激しさを増していった。ギルは課題の難易度のみを過剰に偏重する単一思考の追求姿勢をこのスポーツにとり健康的ではないと見ていた。彼はその見解を「ボルダリング覚書・垂直の道」というエッセイの中でこう述べている。「エゴそのものと同様に、クライミングの外的感覚のみにとらわれ、単にそれが困難さと危険を反映する鏡の中で絶え間ない再主張を繰り返して行かなくてはならないある抽象概念に過ぎないとみなすことは、なんと意気阻喪させられることだろうか。」ボルダリングの外的感覚である難易度はこのスポーツの一面であるに過ぎない。困難な登攀はクライミング社会における信用の獲得という形で報われるため、ほとんどのボルダラーは他のすべての要素を排除して難易度の追求に没頭する。一方のギルはより得るものが大きいとして内的感覚をより重視するが、こうした境地に到達するためには、競争と決別することが必要になる。
南コロラド大学で数学教授の職に就くための1971年のプエブロへの転居は、彼がクライミングシーンと一定の距離を置くことを可能にした。街の西部に広がるダコタ・サンドストーンの小断崖に彼はよく一人で出掛けて、同じ課題を何度も何度も登ることによって各登攀がほとんど何の苦もなくこなせるようになるまでムーヴを洗練させていった。彼は体操家が追求するいわゆる浮遊感、「軽さ」の感覚に到達した。こうした「運動感覚的知覚」の状態への到達はギルにとって非常に重要な要素になっていった。
1976年、パット・アメントはプエブロ周辺でのギルの登攀を記録した白黒の短編映画を製作する。「ザ・サイレント・クライマー」(訳注:約15分のショートバージョンはVHSのビデオテープとして日本にも輸入され、目白のカラファテなどでも売られていた。それとは別にロングバージョンが存在し、ジム・ハロウェイの登攀シーンも収録されている模様。)は、それまで写真で想像するしかなかったギルの流れるような動きとそのパワーを伝えてくれる。あるシーンでギルは地面からランジした後、振られるのを止めたり、あるいは、よりよいホールドに持ち替えたりする替わりに、最初のムーヴの反動を利用して次のムーヴに移っていく。その途中ではいくつものハンドホールドが使われているが、最終的な登攀からは、ただ一つの浮遊動作を見ているような印象を受ける。まるで彼がゆっくりと確実にヘリウム入りの風船を上げているかのように。
運動感覚的知覚はギルが他の誰かと一緒にボルダリングをする時には得難いものだった。「私は常に誰かに見られることによって生じる余計な力を嫌ってきた。たとえそれが自分に味方する(成功を望む)ものであろうと、その逆(失敗を望む)であろうと。」だからといって彼がプエブロで常に一人で居られた訳ではない。クライマー達は「岩の達人」を相手に自らの腕前を試そうと、頻りに彼を連れ出そうとした。ギルは自分が生意気な若造に決闘を挑まれる年老いた西部のガンマンであるかのように感じた。クライマーの間でギルの課題に打ちのめされたという類の噂話とともに、挑戦者の失敗を目にしたギルの口元に薄笑いが浮かぶといった話が流布された。「ギルの口元の薄笑い」についてジョン・ロングは「パンピング・サンドストーン」の中でこう言っている。「それは間違いなく、僕が昔見た映画の中でアマチュア・ボクサーを眺めるモハメッド・アリの顔に浮かんでいた薄笑いだった・・・。」ある人は競争意識がもたらす負の側面を口外してきたギルがこうした決闘を受けて立ち、相手を蹴散らして勝利を得ていたことに不審感を抱くかもしれないが、ギル自身もそれを次のように認めている。「自分は普通の人間的感情の構造を全く超越できないでいる。」競争意識は30代後半から40代の彼にプエブロでの最難ルートの設定を促す要因となったかもしれない。彼はグレードB3、すなわち、再登不能の概念を好んだが、こうも言っている。「歳月を経て、そんな課題は実は存在しないということを学んだよ。」
プエブロにおけるギルの課題探求の多くは、クライマー仲間のウォレン・バンクスとともに行われた。バンクスはギルにカルロス・カスタネダの著作を薦めた。カスタネダの著作はドラッグ・カルチャーと同一視されていたため、ドラッグの使用に全く興味がなかったギルは当初その薦めに懐疑的だった。だが、ギルはすぐにカスタネダの本に魅了され、それらが示す手引きに従うことで、ドラッグを使わずに覚醒状態のまま夢の境地に至る方法を会得した。6年から7年にわたり、彼はしばしばボルダリング中または長く易しいルートのソロの際中にこうした意識変化の状態実験を行った。ある時には自分が岩の中と外を縫うように進む感覚をクライミング中に味わった。
1987年、50歳のとき、彼のボルダリング歴第三期はプエブロ西方の山中のある花崗岩の岩場で突然終わりを迎える。右手でホールドを取るために激しく跳躍した後、足と左手が岩から離れた。彼は着ていたシャツが破れたような音を聞いたと感じ、そのすぐ後で明らかに右腕に力が入らないことに気がついた。彼の二頭筋腱は肘関節から剥離し、筋肉がまるで風除けのウィンド・シェイドのように巻き上がり、彼の肩にグレープフルーツ大のコブを作った。彼は地面に落ち、静かにこう言った。「ああ、二頭筋を伸ばしてしまったよ・・・」腱は外科手術でつながり、一年半後にギルはその腕で片腕懸垂ができるまでに回復したが、怪我の再発の危険性が高まったことは彼にハードでダイナミックなボルダリングを諦めさせることにつながった。
ギルは主にそのボルダリングへの傾倒で知られるが、彼は長く易しいルートの登攀も同様に楽しみ続けていた。1994年に彼はこう記している。「ローガンロングスピーク東壁を一人で登って以来、40年以上にわたり、長いがさほど難しくないルートのソロを続けている。多くの場合は、両足が同時に地面から離れることなしに二時間もの時間をただ一つのボルダーの前で過ごすという気力の削がれる体験との間で心の均衡を保つため、そして時には、最大限の努力による肉体的な苦痛からの救済として。私は慎重な探索と気楽な羽目外しが混在したこうした種類の登攀を続けてきた。」こうした登攀のほとんどは処女岩壁で行われた。時としてそれは「選択的ソロ」、すなわち、通常はロープなしで容易な岩塔やドームの高いところまで登り、その時の状況が登攀の一連の流れに沿ったものであれば、より困難な領域への迂回を含むものとなった。このような過程を経て彼は、その登攀がそれを行うために相応しい時間と場所であることを理由に、自分が500フィート(150m)以上の高さで5.9のムーヴをこなしていることに気づくようになる。こうして彼は再び、自分自身が最も納得できるものを追求する「垂直の道」をたどるため、一般的なクライミングスタイルから離れていくことになった。
現在(※訳注:本書の書かれた1994年当時)56歳のギルは彼の二番目の妻ドロシーと飼い犬のゴールデン・レトリーバーとともにプエブロ西方の平原に立つ綺麗に片付けられたソーラーハウスに住んでいる。彼の義理の娘とその息子は頻繁にそこを訪ね、彼は大学で教え続けている。彼は今も時間を作っては自分のガレージに赴き、吊り輪や雲梯、その他の手製のトレーニング器具で鍛えている。時々クライマー達がふらりと訪ねてくることもあり、そんな時彼は文法的に正確な独特の語り口で彼らの質問に穏やかに答えている。最近彼はパワフルな十字懸垂動作が求められ、自分の半分程度の年齢の若者を定期的に撃退する自身の課題「リッパー・トラヴァース」を再登した。ギルは自身の「垂直の道」の歩みを続け、今もそこにいる。