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漂石彷徨



コロラド紀行 概要

2019年10月14日(月)から10月21日(月)までの日程で、米国コロラド州のフォートコリンズからボルダー周辺のボルダリングエリアを巡る旅に出掛けた。ジョン・ギル、ジム・ハロウェイ、スティーブ・マーマン、ジョン・シャーマン、ベン・ムーンらの足跡をたどるべく、ホーストゥース貯水池、カーターレイク、フラッグスタッフマウンテン、エルドラドキャニオンを訪ねた。
高齢の両親や膝のリハビリ中の家内が気にかかり、ここ最近は遠出を控えてきたが、勤続15年表彰の連続休暇の期限が10月末に迫り、40代後半になった自分自身の年齢を考え合わせると、これから先はそうも機会を作れそうにないことから、少々の無理は承知の上で決行することにした。出発こそ台風19号の影響で大幅に遅れたが、幸いにも好天に恵まれ期待以上の収穫を得ることができた。以下はその概要。

出発まで
当初は成田からデンバーへの直行便で10月12日(土)から10月20日(日)までの9日間の予定だったが、台風19号(ハギビス)直撃の予報で成田空港に着陸制限がかかり、11日(金)朝に12日の便が欠航になった。更に13日発ロサンゼルス乗継の代替便も欠航になり、12日の朝に航空会社に電話して14日羽田発の韓国とロサンゼルスの乗継2回の別便を手配してもらい、帰国を1日遅らせた。当日14日の朝確認すると韓国からロサンゼルスの便がWiFi設備不良で大幅に遅れているというが、共同運航便のため羽田のカウンターでは詳細が不明でとりあえず韓国に向かう。金浦空港で乗継の入国審査を受け地下鉄で仁川空港第1ターミナルに向かう。カウンターで問い合わせると予定便が欠航になったため別便を手配してくれることになり、シアトル経由のアシアナとサンフランシスコ経由の大韓航空の二者択一でより早く着ける後者を選んだが、ゲートは第2ターミナルで出発までに時間がないと告げられ、直ちにシャトルバスで移動。何とか出発に間に合い、サンフランシスコに向かう。同所で乗換。荷物を都度ピックアップするのに難儀した。米国は入国審査が年々厳しくなっている気がする。デンバー到着は既に夕暮れ時だった。

10月14日(月)晴れ【移動日】
長い長い旅路を越えて午後6時半過ぎにラブランドの宿にチェックインする。日が暮れた後の久々の右側運転は非常に怖かった。乾いた空に煌々と輝く満月が印象的だった。

10月15日(火)晴れ 気温2~14℃ 南南東の風 風速2.8m/s【登攀1日目】
ホーストゥース貯水池
・「ライト・エリミネーター(V3)」
・「メンタルブロック中央(スタンダード)(V4)」
・「メンタルブロック左(コーナー・ロック)(V4)」
・「メンタルブロック右(ピンチ・オーバーハング)(V5)」
・「リーチオーバーハング(V6)」
・「サンシャインボルダー・スタンダード(V3)」
・「サンシャインボルダー右(マッスル・クリング)(V5)」
・「ザ・スクープ(V3)」

10月16日(水)晴れ【レスト日】
ボルダー市街までレンタルマットを借りに行く。カーター・レイクの下見。

10月17日(木)晴れ 気温4~24℃ 北北東の風 風速1.4m/s【登攀2日目】
カーター・レイク
・「カフナ・ルーフ(V6)」
ホーストゥース貯水池
・「ドッグ・レッグ・クラック(V2)」
・「レフト・エリミネーター(V5)」
・「ピアノ・トラヴァース(V5)」
・「ブーティ(V1)」

10月18日(金)晴れ【レスト】
フラッグスタッフ・マウンテン下見。宿のあるラブランドの街を歩く。博物館、ビール醸造所。

10月19日(土)晴れ 気温5~17℃ 南南東の風 風速3.6m/s【登攀3日目】
フラッグスタッフ・マウンテン
キャプスタン・ロック
・「ジャスト・ライト(V7)」
ノートリム・ボルダー
・「ホロウズ・ウェイ(V8)」
レッドウォール
クラウドシャドウ
・「コンシダレイション(V4)」
・「クラウドシャドウ・トラバース(V4)」

10月20日(日)曇り 気温3~7℃ 西南西の風 風速16.4m/s【登攀4日目】
エルドラド・キャニオン
ウエスト・ワールド
・「ジャーム・フリー・アドレセンス(V5)」
ミルトン
・「ミルトン(V3)」×敗退
ギルボルダー

10月21日(月)晴れ 【帰国日】


# by tagai3 | 2019-11-12 22:54 | クライミング | Comments(0)

改元

忙中有閑。運動感覚的知覚は多忙なときにこそ覚醒するというギル先生の教えに従い、久し振りにグレードのついたボルダーを登りにいった。時期的に静かそうなところばかりを選んだのでほとんど誰にも会わなかった。

2019(平成31)年4月29日(昭和の日)
八千穂高原に行く。「亜谷女」(初段)、「楓バリエーション」(初段)、「アブダクション」(初段)をそれぞれ一撃する。「球」(1級)や「七宝」(1級)も面白かった。日陰には雪が残っていた。花桃が盛りを迎えていた。

2019(令和元)年5月3日(憲法記念日)
再び八千穂高原に行く。「楓」(二段)、「ゾエア」(初段)、「ロールケーキカンテ」(1級)を登る。「ゾエア」は苔が復活していてほとんど発掘作業だったが、ムーヴを探す過程がとても楽しかった。「兜岩」を見学して帰る。

2019(令和元)年5月12日(日)
湯河原幕岩に行く。ニューエリアの奥まで行くアプローチは辛く、既に虫のオンパレード。明らかに時季を逸しているのを悟った。「ファンタジスタ」(二段)、「サンセットダディ」(1級)、「木漏れ日」(1級)を登る。主不在の空家だと誤認して脚長蜂の巣を落としてしまう。帰ってきた母蜂は呆然自失で辺りを行きつ戻りつしていたが、やがて諦めて飛び去っていった。子を思う母心は人も虫も変わりないのかもしれない。残酷なことをした自責の念と暑さで早々に切り上げて帰路に就く。小田原厚木道路の集中工事を避けるため市内を通たら迷ってしまい時間をロスした。

2019(令和元)年5月19日(日)
下仁田に行く。「地ジャン下から」(初段)、「橋の下」(初段)、「道化師」(初段)、「タッキートラバース」(初段)を登る。「道化師」と「タッキー…」は一撃できたが、「橋の下」は苦労した。チョーク跡で使うホールドが明瞭なだけにそれに惑わされてムーヴを見つけるのに手間取った。日当たり良好につき夏季は辛そうだ。9:30撤収。道の駅でコロッケを喰って帰る。


# by tagai3 | 2019-05-30 22:30 | クライミング | Comments(0)

ストーン・クルセイド ギルの章(翻訳)

啓示をうけたボルダラーにとって、ジョン・ギルという名前は特別な意味を持っている。それは革新とパワー、スタイルと専心を表す。ギルの課題はカルト的な領域に達し、このスポーツにおいて最初の伝説的な人物が設定した基準で自らの力量を試そうと世界中から多くのクライマーが訪れる。ギルの貢献は余りのも巨大であったため、「マスター・オブ・ロック(岩の達人)」というそのタイトルにふさわしい伝記が編まれている。(原注:パット・アメントによる「マスター・オブ・ロック」には1977年の初版とこれに新たな内容を追加し、増補改訂した第二版がある。ともにジョン・ギルの人と人生について詳しく知るために推薦できる。77年版が彼のボルダリングに焦点を当てているのに対し、92年版はボルダリング以外のクライミングとそこから離れた彼の人生そのものに焦点を当てている。訳注:第二版以降に邦訳はないが、「岩と雪」第159号(19938月)に初版(「ジョン・ギルのスーパーボルダリング」森林書房198410月)の訳者平田紀之が書評を寄せている。また、「ストーン・クルセイド」出版の4年後には、改訂第三版「ジョン・ギル マスター・オブ・ロック」(19985月)が上梓された。)今日の我々のボルダリングに対する見方について、ジョン・ギルほど巨大な影響をもたらした人物は他に存在しない。

ギルは1953年にアラバマでクライミングを始めた。友人にこのスポーツを紹介された時、彼は高校2年生だった。クライミングについての最初の知識はほぼ全て米国山岳会編の「アメリカ登山ハンドブック」とブリタニカ百科事典の「登山」の項から得たものだった。後者には重すぎる登山靴を履いた山岳ガイドが露出感のある崖を登る写真が載っていた。この写真がギルの想像力に火を点け、最初の彼の関心はロープを使ったクライミングに向かった。

ギルはたちまちクライミングの虜になった。「それは驚嘆するほど素晴らしく、自分の人生の全てが突然絡め捕られたように感じて、そこら中の岩々を巡り歩くようになった。クライミングの印象はそれほど鮮烈だった。」とギルは言う。「当時の自分にとって、難易度にはほとんど何の意味もなかった。すべては困難で危険に満ち、同時にそれまで経験したこともない冒険的でエキサイティングな生き方だと感じられた。」

大学でギルは体操のコースを履修した。6フィート2インチ(188cm)の体格は、床競技に不向きだったため、彼はロープ登り(当時は大学対抗競技会の正式種目だった)と吊り輪に集中した。直径1インチ半(3.81cm)のロープ登りを通じて、彼は爆発的な上半身の強さを身につけた。座った状態から足を使わずに、彼は規定の20フィートの高さを3.2秒で登ることができた。当時の世界記録に0.6秒劣るものの、素晴らしい記録である。吊り輪は彼の肩と後背筋を鍛え上げるのに役だった。「マスター・オブ・ロック」の中でポール・メイローズは次のように述べている。「彼が少し動くたびに、それらは躍動し盛り上がった。」ギルは反転十字懸垂ができ、特にバタフライ・マウント(体操選手が吊り輪に真っ直ぐぶら下がった状態から腕を真横に開いた十字懸垂の状態まで体を上げるとともに、両足をL字状に真っ直ぐ上げた後、両腕が床と垂直になるまで脇を締めていく技。)が得意だった。彼は2回続けてそれを行うことができた。

1950年代半ばから終わりにかけて、クライミングの動作はいわゆる三点支持を基本に静的に行われていた。動的な動きは制御不能の状態に陥った技術の劣るクライマーが苦し紛れに行う悪い見本とみなされていた。その当時、ギルはクライミングと体操の両方に強い関心を抱いていた。ギルは当時のクライミングの水準を観察した結果、クライミングと体操競技の2つのスポーツが身体運動としては極めて似通っているにもかかわらず、その動作について言えば、クライミングが体操競技の水準からはるかに劣っていることに気づいた。ボルダーに集中すればクライミングの難易度の水準を著しく進歩させることができるのではないかと考えた彼はボルダーについて体操的技能を発揮する対象として捉えた最初の人物となった。

こうした新しい考え方の下で彼が最初に取り組んだボルダーはティートン山群ジェニーレイク湖畔の3つの小さな花崗岩の塊だった。1957年と1958年に彼はここで当時行われていたどんなロープクライミングよりもはるかに難しい複数の課題を設定した。また、その翌年(1959年)にはレッドクロス・ロック東面の手がかりの乏しいバルジへの挑戦を開始する。バルジの下の胸の高さの位置にある割れ目は左手で掴めるが、右手で掴めるホールドはまったくなかった。左足の爪先で小さなエッジに立ち、右足で地面から飛び跳ねるスインギング・レイバックにより、右手が岩の上辺部の縁に届いたが、最初の試みは失敗に終わった。何度目かの挑戦の後、彼の指先は天辺から5フィート半程下の飲料瓶キャップよりもわずかに大きい小突起をピンポイントの軌道で捉えた。こうしてジョン・ギルはボルダリング史上で初となる困難でコントロールされたダイナミック・ムーヴに成功した。(訳注:現在この課題のグレードはオリジナルムーヴでV9、後年出現した中継ホールドを使ってV7とされる。)

ギルの登攀歴は3つの期間に区分することができる。195761年の第一期(3年間)、196170年の第二期(10年間)、197287年の第三期(16年間)である。そのボルダリング歴を通じて彼はクライミング界が規定した外的規範を顧みず、自らの発想に従い、如何なるものでもその時々で最も満足感が得られる登攀スタイル、すなわち、彼がいうところの”垂直の道”をたどった。

第一期に彼はフォームよりも難しさに関心を向け、ダイナミック・テクニックの実験を行うだけでなく、パフォーマンス改善を目的とする禅の瞑想やリラクゼイション法の修得にも取り組んだ。その期間を通じ、ティートン、ニードルズ、デビルズ・レイクや中南部各地で膨大なクライミングを実践する一方、多様なスタイルについての実験を試み、機能したものを残し、そうでないものを捨てていった。クライミングでの体操用チョークの使用を開始した他、ピトンハンマーによるホールドの拡張まで行っている。「50年代のボルダリング」(クライミング・アート誌第7号(19881月)というエッセイの中で、彼はこの珍しい事件をきまり悪げに回想している。「それは1959年、デビルズ・レイクで起きた。そのライン(訳注:ウィスコンシン州の章にマスター・オブ・ロックにも写真が出ている「リトル・フラットアイロン」とある。現在のグレーディングはV4とされる。)の成功の可否が自分だけの憶測の域を出なかったことが唯一の言い訳だが、それが当時も今と同じように、非倫理的で恥ずべき行為であったことに変わりはない。もしあの瞬間に自分自身の衝動を抑え、より適切な時期に再訪できていたら、あのルートは真に自分自身のものになっていただろう・・・」これに気づいたギルが同じ過ちを繰り返すことは二度となかった。

ギルはボルダリングを孤独の中での修練に最も適したスポーツと考えていたが、しばしば他の仲間ともボルダリングを共にしている。第一期の重要なパートナーとしては、イヴォン・シュイナードとリッチ・ゴールドストーンの二人を上げることができる。シュイナードを観察することで、彼は所与の課題に対し常に異なるアプローチの方法が存在することを学んだ。5フィート4インチ(162.6cm)の小柄でパワフルなシュイナードがより身長の高いギルと同じシークエンスを用いることはめったになかった。ゴールドストーンについてギルは極めて滑らで優雅に登り、当時の仲間の誰よりもボルダリングを真剣に捉えていたと評している。

ギルは自身の身体能力や特殊技能に相応しい課題を探し出すとともに、身体的な快感を得られる課題を探し求めた。オーバーハングした岩と切り立ったバルジは彼の長いリーチと力強いスィンギング・ムーヴにぴったりだった。かといって、彼がフットワークに無頓着だった訳ではなく、必要であれば、難しいスラブ課題を征することもできた。

ギルはこの時期にある種の評判を獲得する。ある者は彼の課題の難しさに強い印象を受けた。ギルは当時、それらの多くを登れる唯一の人物だった。ある者は彼をただのボルダラーとして切って捨て、またある者は彼が「変わり者」で、折角の才能を取るに足らない対象に空費していると考えた。ギルが他者の評価を気にすることはほとんどなかったが「マスター・オブ・ロック」(1977年)の中で、当時のことについて次のように語っている。「とにかく何か本当に充実したものを作り出したい、本当に重要な登攀を成し遂げたいと感じたのだ。」

やがてギルはサウスダコタ州ニードルズの30フィート(約9メートル)の尖塔に取り憑かれるようになる。珪質結晶の混ざった北東壁が全面にわたってオーバーハングするその尖塔は「スィンブル」と呼ばれていた。核心は課題の上半部から始まる。基部に設置された木製のガードレールが、この課題の特徴である恐怖感を一層高めた。仮に課題の下部三分の二のムーヴのいずれかで落ちれば、彼はこのガードレールに叩き付けられたことだろう。上部三分の一からであれば、ガードレールは避けられるが、極めて長い墜落の衝撃による負傷は避けられない。3回から4回にわたり、ギルはこの課題に挑むためにモンタナ州のグラスゴー空軍基地から500マイル運転してきた。リスクを伴うため、この課題はギルの他のどのルートよりも事前準備が求められた。そのために彼は激しいトレーニングを実行し、ルート上で遭遇するだろう突起状のピンチホールドに対応するため、ボルトとナットを摘んだ懸垂を行った。彼は絶好調で、戸口の側柱を使わずに連続3回の片腕懸垂を行うこともできた。

1961年の春、鋭いエッジや脆いノブをつかみ、身体が振られるムーヴに耐えて、遂にギルは「スィンブル」の頂に立った。以来、「スィンブル」は世界で最も有名なハイボルダーのひとつとなる。ロープなし、リハーサルなしの再登を迎えるまで、更に数年代の期間を要したが、その頃には既に心理的障害となっていた基部のガードレールは撤去されていた。この登攀は彼の評価を更なる高みへと押し上げ、彼を批判する者達を沈黙させた。この課題を試みた者、否、一度でも見上げたことのある者が彼を「単なるボルダラー」と呼ぶことは二度となかった。(訳注:現在のグレードではV5、最有力視される第二登の記録は1981年のグレッグ・コリンズによるもの。ジョン・シャーマンの再登が一部の山岳雑誌に初と誤報されたという記述がシャーマン自身の著作やマスター・オブ・ロック第三版にある。)

多くのハイ・ボルダラーが「スィンブル」をアメリカで最も印象的な課題と考えている。だが、ギルはこう言う。「スィンブルは私にとっては真のボルダー課題とはいえない。あれは少々高過ぎで、危険過ぎる。課題の中でダイナミック・ムーヴを使った記憶もほとんどない。私にとっての真のボルダリング・ムーヴはダイナミック・ムーヴだ。あの頃はそれがどんなに難しかろうと、スタティック・ムーヴを含む課題はたとえそれがボルダーの上で行われようと、ミクロ・クライム(矮小登攀)だと見なしたものだ。」ギルのボルダリングの定義では、リスクの極小化、ダイナミック・ムーヴ、(1960年代の基準による)B1以上の技術的難度が強調されるが、スィンブルには最後のひとつしかない。

「スィンブル」の登攀はギルの登攀歴第一期の終わりを告げるものとなった。その年のうちに彼は空軍を除隊して結婚し、アラバマで数学の博士課程に進むことになった。彼のボルダリング歴第二期は、家族(彼の娘は1965年に誕生する)と仕事への関心がより多くの時間を占めるようになる。だが、この9年間においても、ボルダリングは彼にとって重要な心のはけ口となった。ボルダリングに出掛ける時、彼は日常の心配事を忘れ、それらの替わりにクライミングの身体的な刺激と周囲の自然の美しさに集中することができた。オフィスでの卒業論文執筆等の感覚的欠乏状態から、彼はボルダリングに行くことで認知感覚が高まることにすぐに気づくことができた。空はより青く感じられ、岩との際限はより鮮明に引き立って見えた。この期間を通じ登攀フォームとスタイルはギルにとって一層重要なものとなっていった。

彼はアラバマからケンタッキー州マレーに移り、マレー州立大学で数学を教え、主にイリノイ州南部のディクソン・スプリングスで登った。1967年に彼はコロラド州立大学での数学の博士号取得のためにフォートコリンズに移る。ここで彼はもう一人のクライマー兼体操競技者のリッチ(リチャード)・ボーグマンと出会う。ギルはボーグマンの目をボルダリングに向けさせホーストゥース貯水池のボルダーの可能性の開拓を共に手掛けることになる。

ギルはホーストゥースで彼の最も有名な課題のいくつかを生み出した。メンタルブロックとエリミネーターは世界で最も有名な課題となっている。メンタルブロックの「左」(コーナーロック)、「中央」(標準ルート)、「ピンチルート」の3本のクラッシックは、すべて試み始めたその日に登られた。ギルはその際にトップロープを使ったが、当時の下地が落ちれば骨折は確実な状態であったことには触れておくべきだろう。後年、クライマーたちはテレビジョン・サイズのブロックのほとんどを撤去し、整地を行っている。それでも尚、多くのクライマーが今もこれらの課題を登るためにトップロープを使用している(訳注:これが書かれた1993年当時、クラッシュパットは未だ一般的なものとして普及していなかった。)。

その当時、ギルはほぼ唯一の真剣なボルダラーだった。パートナーが現れることはほとんどなく、自分の課題に興味を持ったクライマーにラインを示すため、彼はメンタルブロックとエリミネーターの取り付きに2インチ程度の小さな白い矢印を描いた。「このスポーツを育てたかったし、自分と同様にボルダリングに興味を持つ仲間が欲しかった。」1979年にギルはクリス・ジョーンズにこう語っている。「それは最前線を行くロッククライマーに興味を抱かせる唯一の手段だった。課題にグレードをつけ、小さな矢印を描いた。あんなことは間違いなくもうやらないよ。」他のクライマーがギルに対抗するために自分の新たな課題にチョークで矢印を描いたという話を聞いたときギルは思わず哄笑した。

ギルが開拓したコロラド州北部のエリアはホーストゥースのみに止まらない。エステス・パークではヘイガーマイスター・ボルダーを登り、ロッキーマウンテン・ナショナルパークではランピーリッジ沿いの孤立したボルダーを登った。スプリット・ロック、フラッグスタッフ・マウンテン、エルドラド・キャニオンにも足跡を残した。この時期に彼はパット・アメントと出会う。ボルダー市出身のクライマーで体操家でもあった彼はギルの親しいボルダリングパートナーとなり、やがてはギルの伝記作家になると同時に生涯の友となった。

ギルは彼自身の体操的な技能が1960年代半ばには衰え始めたというが、彼の強さは依然として目覚ましいものだった。彼は片腕で目一杯伸ばした全身を地面と水平にして一時的に保持する片腕フロントレバーの能力を磨いた。右腕で連続7回、左腕で連続6回の片腕懸垂ができ、鉄棒であれば片腕一本指懸垂も可能だった。最も驚くべき能力は表面の粗い横桁を片手で摘んだまま片腕懸垂をしたことだろう。多くのクライマーにとってギルのストレングス・トリックを真似ることは彼のルートを登るのと同様の目標となった。1969年のアメリカン・アルパイン・ジャーナル(訳注:米国山岳会年報。日本山岳会の「山岳」に相当する権威ある機関誌。)に掲載された「ボルダリングの技術」でギルは次のような視点を提示する。「上半身の基礎力は、フロントレバー、片腕懸垂、腕だけの蹴上がり、片腕マントル等で鍛錬する。ある特殊技能の鍛錬には吊り輪を使ったバタフライ・マウントや片腕フロントレバーが求められる。」ギルは続けてこう言う。「専門的ボルダラーは様々な幅の桁を使った懸垂で握力を鍛え、ドアの鴨居を使った片腕一本指懸垂でトレーニングする。」そしてここに免責条項が続く。「これらのエクササイズの全てを行う能力がボルダリングに必須という訳ではないが、これらの能力を顕示させることは、彼らのスキルにある種の磨きを掛け、クライミングに精巧さを付与し、その性質としてある種の特殊技能が求められる極限の課題を解決する際の一助となる。」ギルの力の曲芸は、再登を許さない彼の困難な課題の数々と相俟って、その評判を高めるとともに、場合によっては、神ならぬ普通の人にはボルダリングはとても無理だと感じた一部の人々を怖じ気づかせてしまった面があったかもしれない。

自身のクライミングスタイルを他のクライマーに説明するため、彼は数多くのエッセイを書いている。「ボルダリング技術」の中で、彼は自身が行うゲームについて定義している。彼はそれを「基本的には極度に困難な動きが強調された1ピッチのロッククライミング」と呼んだ。彼はまた、次のような哲学を前面に押し出した。「ボルダラーは登攀の正否と同様かそれ以上に登攀フォームに関心を向け、彼がそれを優雅に登るまでは真にその課題を解決したとは感じない。」ギルは新たなグレーディングシステムとしてBシステムを提唱し、彼が従来の練習登攀とボルダリングとを明確に区分できると感じる難易度にB11969年当時のロープを付けた登攀における最高難度である5.10のムーヴ)を付けた。彼はダイナミック・ムーヴについて語り、おそらくはクライミングの文脈の中で「デッドポイント」という言葉を使った最初の人物となった。

「ボルダリング技術」では、また、体操的な追求の対象としてのボルダリングを提唱している。ある人は彼のこのエッセイについて、もし彼がこのスポーツの第一人者として振る舞っていたなら、以後30年にわたりこのスポーツの在り方を規定することもできたに違いないとして、高く評価する。しかしながら、ギルの文章は時として彼の数学の証明のように濃密で難解であるとされた。多くのクライマーがギルの文章の冗漫さに足を取られ、そのエッセイの要点を見失ってしまった。多くの専門家にとってこのスポーツを定義したのは彼の文章ではなく、彼のボルダー課題だった。ギルのルートや彼が登る写真を目にしたクライマーは、それこそがボルダリングだと理解し、ギルのテストピースの再登若しくは同程度に困難な彼ら自身の課題の初登に血道をあげるようになった。ギルと同様に登攀フォームにも同等の関心を向ける者はほとんどいなかった。

1970年、ギルはいわゆるクライマー肘の最初の症状におそわれる。痛みのため彼は一年もの間クライミングから遠ざかり、これによって彼のボルダリング歴第二期が終焉を迎えることになる。

ギルがクライミングを再開したとき、彼は両腕懸垂4回がやっとの状態だった。その時は彼自身、ボルダリングの世界に戻りたいか否か分からなかった。彼にとってそのスポーツは余りにも有名になりすぎていた。コロラドはボルダリングの黄金時代を迎え、多くのクライマーがボルダリングを過剰なまでに真剣に捉えるようになっていた。ボルダラー達が課題の困難さばかりに執着すればするほど、競争は激しさを増していった。ギルは課題の難易度のみを過剰に偏重する単一思考の追求姿勢をこのスポーツにとり健康的ではないと見ていた。彼はその見解を「ボルダリング覚書・垂直の道」というエッセイの中でこう述べている。「エゴそのものと同様に、クライミングの外的感覚のみにとらわれ、単にそれが困難さと危険を反映する鏡の中で絶え間ない再主張を繰り返して行かなくてはならないある抽象概念に過ぎないとみなすことは、なんと意気阻喪させられることだろうか。」ボルダリングの外的感覚である難易度はこのスポーツの一面であるに過ぎない。困難な登攀はクライミング社会における信用の獲得という形で報われるため、ほとんどのボルダラーは他のすべての要素を排除して難易度の追求に没頭する。一方のギルはより得るものが大きいとして内的感覚をより重視するが、こうした境地に到達するためには、競争と決別することが必要になる。

南コロラド大学で数学教授の職に就くための1971年のプエブロへの転居は、彼がクライミングシーンと一定の距離を置くことを可能にした。街の西部に広がるダコタ・サンドストーンの小断崖に彼はよく一人で出掛けて、同じ課題を何度も何度も登ることによって各登攀がほとんど何の苦もなくこなせるようになるまでムーヴを洗練させていった。彼は体操家が追求するいわゆる浮遊感、「軽さ」の感覚に到達した。こうした「運動感覚的知覚」の状態への到達はギルにとって非常に重要な要素になっていった。

1976年、パット・アメントはプエブロ周辺でのギルの登攀を記録した白黒の短編映画を製作する。「ザ・サイレント・クライマー」(訳注:約15分のショートバージョンはVHSのビデオテープとして日本にも輸入され、目白のカラファテなどでも売られていた。それとは別にロングバージョンが存在し、ジム・ハロウェイの登攀シーンも収録されている模様。)は、それまで写真で想像するしかなかったギルの流れるような動きとそのパワーを伝えてくれる。あるシーンでギルは地面からランジした後、振られるのを止めたり、あるいは、よりよいホールドに持ち替えたりする替わりに、最初のムーヴの反動を利用して次のムーヴに移っていく。その途中ではいくつものハンドホールドが使われているが、最終的な登攀からは、ただ一つの浮遊動作を見ているような印象を受ける。まるで彼がゆっくりと確実にヘリウム入りの風船を上げているかのように。

運動感覚的知覚はギルが他の誰かと一緒にボルダリングをする時には得難いものだった。「私は常に誰かに見られることによって生じる余計な力を嫌ってきた。たとえそれが自分に味方する(成功を望む)ものであろうと、その逆(失敗を望む)であろうと。」だからといって彼がプエブロで常に一人で居られた訳ではない。クライマー達は「岩の達人」を相手に自らの腕前を試そうと、頻りに彼を連れ出そうとした。ギルは自分が生意気な若造に決闘を挑まれる年老いた西部のガンマンであるかのように感じた。クライマーの間でギルの課題に打ちのめされたという類の噂話とともに、挑戦者の失敗を目にしたギルの口元に薄笑いが浮かぶといった話が流布された。「ギルの口元の薄笑い」についてジョン・ロングは「パンピング・サンドストーン」の中でこう言っている。「それは間違いなく、僕が昔見た映画の中でアマチュア・ボクサーを眺めるモハメッド・アリの顔に浮かんでいた薄笑いだった・・・。」ある人は競争意識がもたらす負の側面を口外してきたギルがこうした決闘を受けて立ち、相手を蹴散らして勝利を得ていたことに不審感を抱くかもしれないが、ギル自身もそれを次のように認めている。「自分は普通の人間的感情の構造を全く超越できないでいる。」競争意識は30代後半から40代の彼にプエブロでの最難ルートの設定を促す要因となったかもしれない。彼はグレードB3、すなわち、再登不能の概念を好んだが、こうも言っている。「歳月を経て、そんな課題は実は存在しないということを学んだよ。」

プエブロにおけるギルの課題探求の多くは、クライマー仲間のウォレン・バンクスとともに行われた。バンクスはギルにカルロス・カスタネダの著作を薦めた。カスタネダの著作はドラッグ・カルチャーと同一視されていたため、ドラッグの使用に全く興味がなかったギルは当初その薦めに懐疑的だった。だが、ギルはすぐにカスタネダの本に魅了され、それらが示す手引きに従うことで、ドラッグを使わずに覚醒状態のまま夢の境地に至る方法を会得した。6年から7年にわたり、彼はしばしばボルダリング中または長く易しいルートのソロの際中にこうした意識変化の状態実験を行った。ある時には自分が岩の中と外を縫うように進む感覚をクライミング中に味わった。

1987年、50歳のとき、彼のボルダリング歴第三期はプエブロ西方の山中のある花崗岩の岩場で突然終わりを迎える。右手でホールドを取るために激しく跳躍した後、足と左手が岩から離れた。彼は着ていたシャツが破れたような音を聞いたと感じ、そのすぐ後で明らかに右腕に力が入らないことに気がついた。彼の二頭筋腱は肘関節から剥離し、筋肉がまるで風除けのウィンド・シェイドのように巻き上がり、彼の肩にグレープフルーツ大のコブを作った。彼は地面に落ち、静かにこう言った。「ああ、二頭筋を伸ばしてしまったよ・・・」腱は外科手術でつながり、一年半後にギルはその腕で片腕懸垂ができるまでに回復したが、怪我の再発の危険性が高まったことは彼にハードでダイナミックなボルダリングを諦めさせることにつながった。

ギルは主にそのボルダリングへの傾倒で知られるが、彼は長く易しいルートの登攀も同様に楽しみ続けていた。1994年に彼はこう記している。「ローガンロングスピーク東壁を一人で登って以来、40年以上にわたり、長いがさほど難しくないルートのソロを続けている。多くの場合は、両足が同時に地面から離れることなしに二時間もの時間をただ一つのボルダーの前で過ごすという気力の削がれる体験との間で心の均衡を保つため、そして時には、最大限の努力による肉体的な苦痛からの救済として。私は慎重な探索と気楽な羽目外しが混在したこうした種類の登攀を続けてきた。」こうした登攀のほとんどは処女岩壁で行われた。時としてそれは「選択的ソロ」、すなわち、通常はロープなしで容易な岩塔やドームの高いところまで登り、その時の状況が登攀の一連の流れに沿ったものであれば、より困難な領域への迂回を含むものとなった。このような過程を経て彼は、その登攀がそれを行うために相応しい時間と場所であることを理由に、自分が500フィート(150m)以上の高さで5.9のムーヴをこなしていることに気づくようになる。こうして彼は再び、自分自身が最も納得できるものを追求する「垂直の道」をたどるため、一般的なクライミングスタイルから離れていくことになった。

現在(※訳注:本書の書かれた1994年当時)56歳のギルは彼の二番目の妻ドロシーと飼い犬のゴールデン・レトリーバーとともにプエブロ西方の平原に立つ綺麗に片付けられたソーラーハウスに住んでいる。彼の義理の娘とその息子は頻繁にそこを訪ね、彼は大学で教え続けている。彼は今も時間を作っては自分のガレージに赴き、吊り輪や雲梯、その他の手製のトレーニング器具で鍛えている。時々クライマー達がふらりと訪ねてくることもあり、そんな時彼は文法的に正確な独特の語り口で彼らの質問に穏やかに答えている。最近彼はパワフルな十字懸垂動作が求められ、自分の半分程度の年齢の若者を定期的に撃退する自身の課題「リッパー・トラヴァース」を再登した。ギルは自身の「垂直の道」の歩みを続け、今もそこにいる。


# by tagai3 | 2018-11-08 22:28 | 翻訳 | Comments(5)

権狐

6月初旬にハイキングで通りかかった時に偶然見つけた。道は落石防護柵の隙間を縫って左にトラヴァースしていくが、そこに向かって右上から下ってくる押し出し状のガレ場の斜面の木立の中に、谷側が垂直に切り立った程よい高さのボルダーがあった。近づいてみると、それは文字通り、ただ一つ置き去りにされたような巨石で、谷側の面にはいい具合にホールドが続いていた。下部一面が炭酸カルシウムの粉に覆われ、リップに堆積した浮石がやや気掛かりだったが、掃除をすれば十分に登れそうに見えた。涼しくなるのを待ちわびて猛暑の夏を過ごす。秋の長雨にも祟られ、ようやく掃除に出掛けられたときにはもう9月の最終週になっていた。その日は約3時間、無心に掃除をする。デッキブラシを強く握り過ぎて、右手親指の付け根の皮が剥がれた。リップの厚い苔を剥がし、大きな石を幾つか取り除いた。その日は程なく雨が降り始めて撤収。ブナの木立で多少の雨なら濡れないことが分かった。翌週はアメダスのデータで前日朝に2ミリの降水があり、クラックからしみ出しがあった。2時間で2手進む。その翌週も同様のコンディションだったが、何とか更に2手進み最後の一手を残すのみとなった。第4週目。最後の一手が極めて悪い。その日5回目に今の自分ができる精一杯のムーヴでなんとか上に抜けた。垂壁のムーヴは中津川のピラニアに少しだけ似ていて、二段はあると思った。自分で見つけて掃除した中では出色の出来だと思う。
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# by tagai3 | 2018-10-22 22:23 | クライミング | Comments(0)

ギルの文章

「ジ・アート・オブ・ボルダリング - ボルダリングの技術」 (1969年 アメリカン・アルパイン・ジャーナル)

ジョン・P・ギル

登山活動にはさまざまな関心と特質に応じた幅広い側面がある。この刺激的な生き方の活力の一部がその多様性から導き出されていることに疑いの余地はない。これらの多様な側面の一端として延々と続く探検行や煩雑な輸送を伴う大規模な遠征登山を置くならば、もう一方の端には、より直截に達成の喜びや失敗の不満が得られる小スポーツとしてのボルダリングを置くことができる。これはイヴォン・シュイナードが持ち前のウィットで「即席の苦悩」と表現した娯楽である。

ボルダリングは本質的に極めて困難な動作が強調される単一ピッチのロッククライミングであるため、この表現の適切さに疑問が呈せられることはほとんどない。ボルダリングは通常、地面へのジャンプが可能な低い崖や大岩でロープに頼らずに行われる。より長いクライミングでは課題の性質に応じて上からか、あるいは下からロープを使用する形態がとられるため、極度に困難な5級の登攀はボルダリングと見なすことができる。ボルダリングと呼び得る困難な登攀には少なくとも5.10以上の難しさが含まれる必要があるため、墜落は日常茶飯事であり、パーティ全員が一切の墜落や飛び降りなしに登攀に成功した場合、その登攀をボルダリングと呼ぶことには多少の疑念が生じるかもしれない。

このような見地から、ボルダリングとは単にエキスパートのための訓練であるという結論が導かれるかもしれないが、このスポーツにはより多くの実体が伴う。ボルダリングには公式の芸術競技や体操競技と同様に非公式の競争が存在する。両者はともに非常に困難な身体操作をより優雅な方法で行うことが要求されるため、こうした比較は極めて妥当であり、それはまた、ボルダリングの新たな側面を明示する。すなわち、ボルダラーは登攀の成否と同様にそのフォームにも注意を払い、ある課題を優雅に登れるまでは、真にその課題を解決したとは感じないということである。ボルダリングにおける競争の精神は激しくなるが、これは嘆くにはあたらない。比較的安全な状況下でアグレッシブな熱気を発することは、より長くより困難な登攀において無秩序な感情の暴発を許すよりもはるかに勝る。ほとんどの洗練された観察者が認めているように、競争は現代ロッククライミングの最も決定的な特徴のひとつである。ボルダリングにおけるスポーツマン的競争はボルダラーがその技術的進歩を妨げる心理的障害を克服する上で有効かつ適切な役割を演じる。

体操選手が困難なムーヴやシークエンスを習得する際、特別な力と技術がその助けとなるように、ボルダラーもまた特定水準のクライミングの課題を解決するために特別な訓練を行うことができる。上半身の基礎的な練習には、フロントレバー、片腕懸垂、ゆっくりとした足を使わない蹴上がり、片腕でのマントルプレス等が含まれる。更に望ましい追加訓練としては、吊り輪での十字懸垂や片腕フロントレバー等がある。クライマーと岩との最も弱い物理的接点となる指については、持久力よりもむしろ純粋な強度やパワーに焦点をあて、できる限りの強化に努めるべきである。専門的なボルダラーであれば、さまざまな幅の梁での懸垂やドアの鴨居での片腕指懸垂等によって指の力を養うことができる。

これらすべての訓練を実行できる能力は、必ずしもボルダリングに不可欠というわけではない。だが、これらの技能を示すことは、しばしばその人のクライミングに磨きをかけ、特殊な技能が要求される極度に難しい課題を解決するために必要な精巧さを獲得することにつながるだろう。バランス課題には脚力や足指の強さが要求されるが、それを持つロッククライマーは珍しくはない。

筋肉の容積とその質に関しては一定の注意を払うべきである。筋肉の強靭さと容積との間ではある種の妥協が図られなければならない。何故なら、後者の優位性はロッククライマーにとってはほとんど役に立たないからである。対重量比での高い強度が特に望ましく、前述の訓練が質的に優れた筋肉の養成に役立つ一方、無計画なウェイトトレーニングはむしろ有害なものとなる。

これらの強靭さは高水準のボルダリングに不可欠だが、それ自体が成功を保証するために十分という訳ではない。ボルダリングは5級の登攀技術の究極的な洗練を求めるが、基礎的な強靭さだけでなく、特殊技能においても伝統的なロッククライミングとの間には大きな違いが存在する。多くの伝統的な登山家にとって技術的に忌むべき突然変異とみられてきたランジも、ボルダラーは安定的に利用する。ボルダリングではがっちりと保持できるホールドがほとんどないため、真に強力な保持力が必要となる。

ランジに類似するが、はるかに優雅でコントロールされた動作として、その名のとおり「ダイナミックレイバック」と表現するのが最も妥当な技術がある。反動をつけたこのレイバックには、自由落下に対してスピードを抑制することでスタート地点に戻れる特徴があり、こうした軌道修正ができない訓練不足のランジとは異なる。適切に行われる動的レイバックは、反動が静止する頂点、すなわち「デッドポイント」におけるクライマーの保持を可能にする。ここではランジ同様、反動によって獲得した高度を利用するために極めて強い指の力が要求される。動作の最中にコントロールの要素が加わるため、単純なジャンプやランジよりもはるかに多くの課題の解決が可能になる。クライマーが上半身の筋肉に適切に使えれば使えるほど、反動をつけている最中のコントロールを容易にするのは明らかだ。前述した訓練はこのときに役立つ。

伝統的なロッククライミングとボルダリングとの区別は比較的軽微であるが、ボルダリングにおける競争の明らかな存在故に、難易度の階層システム(グレーディング)の導入は可能だろうかという疑問が生じる。その答えはおそらくイエスだ。このようなシステムの1つとして次のようなものがある。まず、Bシステムにおいて、B1は5.10に相当し、B2はそれより難しく、B3が最高難度を示す。B3の課題は頻繁な挑戦を受けながらも、ほとんど再登されることのないものとなる。その難しさは持続性が求められ、どんなに印象的であっても単一動作のみによって課題全体の難易度が構成されるべきではない。Bシステム以外のはるかに客観的なシステムでは、排除の概念の応用が考えられる。ここではある程度多くの専門的ボルダラーが階層分けの対象となる課題に取り組む必要がある。E1はその難しさ故にただ1人の人物のみが登り得るものであり、E2は再登者を含めて2人のみという具合だ。E10を過ぎた段階でおそらくこのグレードは使われなくなるだろう。リーチと体のコンパクトさはBシステムをしばしば不合理にし、異なる強さのクライマーがグレーディングに異議を唱えるかもしれない。岩の本来の困難さではなく、あるクライマーの業績を強調するEシステムでは、こうした論争に煩わされることはない。

米国の人気のロッククライミングエリアのほとんどは、近くにボルダリングガーデンを持ち、ある場合には両者の活動が短いリードかトップロープ課題のいずれかの形でひとつに合併し、興味深くストレニアスな小演目となることがある。さらに、中西部または南部には快適で孤立したボルダリングガーデンが数多く存在する。そこでは極偶にしか探訪者を見ることはなく、そのほぼすべてが気軽な訪問のついでに伝統的なロッククライミングの心構えで難しさに対峙している。彼は伝統的な技術が使える課題のみを試み、時間の浪費はわずかに止める。このような作戦は追加的で客観的な危険が存在する山岳地帯やビッグウォールでは完全に合理的かもしれないが、ボルダリングガーデンではより運動競技的な姿勢を安全に採用することが可能であり、また、そうすべきである。ボルダリングの基準を適用するとき、低い岩に登ることははるかに有意義な行為となり、そうでなければ無名だった練習エリアも、このスポーツにとって重要な場所となる。


# by tagai3 | 2018-09-21 22:07 | 書評 | Comments(2)

岩登りについての所感

by tagai3