漂石彷徨



左のぽっけ

12月7日(日) 晴れ
みたけに行く。日の出が遅いので出発時間をやや遅らせ5:00に発つ。6:40発電所脇の駐車場着。冬期間(12/1~3/31)は無料開放とのことでありがたい。右岸側から「でっどえんど」へ。浅瀬の淀みは凍結していた。「左」が登れていなかった。何年も前、友人のSさんと登りにきて、Sさんはあっさりとこれを片付け、私だけが登れなかった。「リーチのせいだ。」等と言って友の成果を一緒に喜べなかった当時の自分が今ではとても恥ずかしい。懐かしい思い出ではあるのだが・・・。7:00登攀開始。左側の2級のカンテでアップした後、2回目で登れる。問題はリーチではなく、ポケットを保持する深指屈筋の使い方とタイミングの取り方だった。誰も居ないので動画を撮ってみる。これも1回目は失敗し、2回目では成功したので、確率は50%ということになる。7:50撤収。疲労をためないようにするため、この日はそのまま帰路に就いた。
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# by tagai3 | 2014-12-09 22:22 | クライミング | Comments(0)

いつもと同じ

11月20日(木) 曇のち雨
いつもどおり7:00に家を出て、いつもと変わらぬ格好で通勤ラッシュの地下鉄に乗り込む。いつもの降車駅を過ぎ、中野から中央線へ。都心から離れるにつれ車内は徐々に空いて行くが、青梅線だけは例外だった。いかにもな感じの老人達で車内は結構混雑している。丁度その日は60代後半の老婆の再婚相手連続不審死事件が報じられた日で、あらぬ空想が頭をよぎる。老後の娯楽について他人がとやかくいう筋合いはないのだが、妙に派手な服装とはしゃいだ様子がどことなく不自然で見るに堪えない。耳にヘッドフォンを深く挿し込み、目をつぶってしばしの時間をやり過ごす。9:47御岳駅着。乗客数で予想は付いたが、平日の御岳は休日と変わらぬ賑いだった。マットを担いだ若者の姿も散見される。服を着替え、「私の家」に向かう。有給消化のため、急に思い立って41歳の誕生日に休みを取ることにした。やることもないので御岳に登りにきたのだが、一体、自分は何年こんなことを続けているのだろう。そういえば、満41は数え42でいわゆる「本厄」だ。道理で体のあちこちに不調が出てきている訳だ。そんなことを思いながら河原への道を降りていった。
この日はこの秋一番の冷え込み。ホールドが指の皮に刺さるので、少ない回数で登ってしまわなければならない。スタートが欠け、当初の課題が消滅したということなので、長らく触らずにいたのだが、今の状態でも十分に楽しそうなのでやってみることにした。実際、変化のあるムーヴは非常に面白かった。
1回目は寒さで指の感覚を失い、スラブの途中で落ちた。一眼レフのカメラを手に周囲をうろつく爺さん達に怒りの感情を覚えたのは八つ当たりというものだろう。そこでまず、スラブだけをやってみる。手順が固まれば特に問題になる個所はない。徐々に指も暖まってきた。心を落ち着け、周囲に人がいないことを確認した後で取付くと、この時の試みで登ることができた。少しあっけなさを感じた所為もあり、持参の小型三脚を使って自分の動画を撮ってみることにする。別に動画サイトに投稿するつもりはないが、動作の確認はどんなスポーツにおいても有意義な筈だ。
実際にやってみるとこれがなかなか大変で、カメラの設定に手間取ったり、なんでもないところで落ちたりして、結局、撮れた映像はバタバタと苦しそうな姿を映したものとなってしまった。おまけに指に穴をあけてしまう。11:00過ぎに撤収。駅で時刻表を確認した後、再び河原に戻って弁当を食べ、11:55の列車で御岳を離れた。
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# by tagai3 | 2014-11-22 16:38 | クライミング | Comments(0)

名前を出すこと

深川スポーツセンターにまたしても「私たちが設定しました。」の看板。
そこにはプロクライマーと称する人たちの顔写真と名前が掲げられており、名前ぐらいは私でも知っていた。
名前を公表している意図は、おそらく仕事の責任は全て自分たちが負いますということだと思うのだが、あんな中途半端な仕事をして、プロとして恥ずかしくないのだろうか?
パッと思いつく理由は次のとおり。
1.単なる手抜き
2.端から利用者を馬鹿にしている
3.派遣団体(とがくれん)からの指示(低レベルの利用者向けにしろ云々)
4.本当に能力がない
いずれにしても、子供だましの粗悪品を販売して平然としていられる感性を持っていることに間違いはない。その中のひとりは10年位前のロクスノで『プロは喰わねど高楊枝』などともっともらしいことを語っていたが、喰うに困って志を捨てたということなのだろうか。
利用者はもっと怒るべきなのだが、どういう訳か羊のように大人しい人ばかり。完全に都岳連に舐められている。有名人の名前を出しておきさえすれば、文句は出るまいと本気で思っている奴らの思う壺にはまっている。問題はむしろこの辺にあるのかもしれない。
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# by tagai3 | 2014-11-12 22:30 | クライミング | Comments(0)

10月後半

10/19(日)
柴崎ロック。J氏講習会に遭遇。元々は彼らの岩場なので文句は言えないが、この日に来た不運を嘆く。また、秘かに尊敬していた往年の発明クライマーのなれの果てを目の当たりにして酷く幻滅した。若者の興味が歴史に向かないのもむべなるかな。ボブ・カンプスのように文字通り生涯現役を貫くか、原節子のような身の処し方のどちらかだと思った。

10/26(日)
「In Tokyo!」を触りに行く。残り2手を残して敗退。

11/3(月) 天長節・明治節・文化の日 曇り
「In Tokyo!」は登れたが、体中擦り傷だらけになった。
前々日の雨で岩はかなり湿っているが、この日を逃せばしばらく来られなくなりそうなので無理に触る。余分な力が入るためか、デッドポイントの動作に入るまでに1時間近くを費やしてしまった。個別のムーヴは既に結構前から出来ているのに、もうかなり長い期間つなげることができずにいた。そうこうするうちにボルダリングそのものからも足が遠退き、昨年の肺の病気もあって、先月の秋分の日(秋季皇霊祭)に触ったのは随分久し振りのことだった。その時の印象ではそう悪くもないように感じたので、身体の回復を量る目安として通ってみることにした。
前回は核心のデッドポイントの次のムーヴで落ちた。この日も最後のリップをつかみ損ねて落ち、いずれも「エゴイスト」に通って来ていた同じ兄ちゃんのスポットに助けられた。内膝と掌のかすり傷だけで済んだのは幸運だったろう。彼がいなければ、足を岩の隙間に挟んで骨折していても不思議はなかった。川面に浮かぶ嘴先の黄色いカルガモを眺めながら小休止した後、ようやくつなげることができた。達成感よりも安堵感が勝ってしまうのは、グレードに拘り過ぎたためだろうか。
わずか3mにも満たない小石の8手足らずの課題を登るために、往復3時間半をかけて2週も続けて早朝に通うなど、全く粋狂で偏執的な行為にも思える。やっていることと言えば、体中チョークまみれになりながら、必死に岩の突起にしがみつくことだけだ。評価の尺度や価値の基準はグレードや課題名で表現されるのかもしれないが、それもごく小さなサブカルチャーの中の、更に小さい共同体の中でのみ通用するものに過ぎない。誰に成果を誇示するでもなく、誰の評価を得られなくとも、続けられれば本物だというが、その境地は遙か彼方にありそうだ。やったことのないフィストバンプ(Fist Bump 拳を突き合わせること。)で迎えてくれた件の兄ちゃんの祝福にぎこちなく応えながら、ジョン・ギルの孤独を思った。岩を掃除して撤収。件の兄ちゃんは、持参の柄付きブラシで高いところのチョークを掃うのまで手伝ってくれた。篤くお礼を言ってその場を後にする。寒山寺の鐘つき堂のところまできたとき、名前くらい聞いておけばよかったと少し後悔した。
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# by tagai3 | 2014-11-05 22:26 | クライミング | Comments(0)

砂時計

10月11日(土)晴れ
カノトのボルダーに行く。6:00発8:00着。3連休初日とあってやや渋滞していた。駐車料金を支払いに行くと、カノト園のご家族は朝食のテーブルを囲んでいて、私にもコーヒーを勧めてくれた。春先に来たときは沁み出しのために登れなかったが、この日は全体にしっとりしているものの、場所を選べば登れそうに見えた。奥の方の「デルタ」という石の左端にある「ディエス」という課題を触ってみることにする。トポには左端のガバからSDスタートし、マントルを返すとある。8:30登攀開始。
ホールドを探しながら動作を考える。スタートホールドのすぐ上のアンダークリングに右手を差し入れ、左足を上げてからリップやや上のスローパー奥の割れ目を左手で押さえる。次に右足に踏み替え、右上のガチャガチャしたところにあるフレーク状のサイドプルをピンチ気味につまむ。続いて左足をスタートホールド左側のポケットに乗せ替えた後、右肘90°のロックオフから左手で5センチ大の横向き砂時計状フレークを取る。これで体を安定させた後、右足をリップに上げて右手で引き付けながら左手を返せば、石の上に立ち上がることができる。岩を見て、動作を考え、それらを試す一連の作業がたまらなく楽しいと感じる。ロックオフから砂時計を取る動作に少々手間取ったため、登れたのは10:00少し前だった。ようやく初段がのぼれるようになってきた。
そのまま帰ればよかったのだが、貧乏根性で別の課題を触ろうとしたところ、6、7人前後の集団がどやどやとやってきた。ひとり静寂を楽しんでいた身としては愉快であろう筈はなく、すぐに帰らなかったことを少し後悔した。早々に切り上げて撤収することにする。カノト園にご挨拶に行くと駐車時間の短さに驚かれたご主人がしきりと申し訳ないとおっしゃる。だが、こんな快適な環境をたった500円で貸してくれるのだから、お金を払わなければバチがあたるというものだ。この日も十分に楽しかったので、逆に恐縮してしまう。篤くお礼を言ってその場を離れた。帰路、灯明の湯の岩場を見に行くが、増水で大ハング下まで水が来ていた。
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# by tagai3 | 2014-10-12 11:32 | クライミング | Comments(0)

熊毛層

2014年10月4日~9日の日程で屋久島に行った。台風18号の影響で奥岳へ入る道路が閉鎖されたため、予定していた太忠岳や高盤岳には登れず、深いガスで眺望皆無の愛子岳に登ったり、雨の中をヤクスギランドから小杉谷集落跡まで歩いたりしただけで終わった。台風19号から流れ込む湿った風の影響で滞在中の天気は優れず、欠航が懸念されたため、予定を2日早めて島を離れた。
小杉谷集落下の河原には無数のボルダーがあり、大きさ、形状、下地、苔の状態、数ともに申し分ないが、そぼ降る霧雨の中、触ることもできずに切歯扼腕の気持ちでその場を離れざるを得なかった。地元のジムの方にコピーを頂き海岸のボルダーを幾つか訪ねたが、屋久島の海岸部は西部林道周辺を除き、概ね熊毛層群に分類されている堆積層が中心で、露出している岩は砂岩や粘板岩が大半を占めている。波に浸食された形状は城ヶ崎の岩質に近い印象を与えるが、節理は細かくても単調なものが多くなる部分は否めない。せっかく屋久島に来たからには正長石の結晶の目立つ花崗岩を登りたかったが、山に入れない以上、その希望も叶う筈はなかった。
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# by tagai3 | 2014-10-12 10:43 | 徒然 | Comments(0)

親孝行

自分の写真が載った雑誌を両親のところに持って行ったら、思いのほか喜んでくれたのには驚いた。老眼で虫眼鏡がなければ文字も読めないのに、ずっと熱心に記事を見ていた。これまでは心配を掛けるのが嫌で、山の話もほとんどしたことはなかったのだが。
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# by tagai3 | 2014-09-29 22:30 | 徒然 | Comments(0)

くもの巣

9月23日(火) 秋分の日 晴れ
御岳から白妙橋を巡る。4:15起床。4:50出発。5:29首都高上で日の出を迎える。ひとりで御岳に行くのは昨年5月以来だ。6:30寒山寺着。前夜青梅市周辺にまとまった量の降水があったようだが、御岳より西側の岩は乾いていた。朝の気温は14~17℃、この日の東京の最低湿度は39%、岩の状態はこの上もない。ロッキーボルダーには既に先客が居り、ひとり黙々と「エゴイスト」を触っていた。私は「In Tokyo!」の上部だけを触った。5回目位で登れたが、やはり指皮は削れた。以前は下部を得意としていたが、今ではとても続けられる自信がない。山口にいるというNaoさんのことを思い出した。
7:30頃白妙橋に移動。ほんの2、3時間の駐車でマスつり場に1,000円も支払うのはどうも釈然としないが、仕方がない。金を払ってから「ニラ」の岩に向かう。藪がひどく顔中クモの巣まみれ、露でズボンをびしょびしょにしながら河原に降りる。「レバ」を触る。この日3回目で登れた。今の自分には過分の成果だろう。そのあと少しだけ「ニラ」を試みるが歯が立たない。当面の課題は最大筋力に近いところで出せる手数を如何に増やすか、という点に尽きる。現状では2、3手が限度だが、そのためのトレーニングは肺に負担をかけそうなので怖くてできない。再び三段を登れる日は来るのだろうか。
帰路、不図思い立って白妙橋の岩場を見に行く。しみ出しの所為か誰もいなかった。「お豆さん」を登って帰る。時間はまだ9:30である。このまま帰っては1,000円が惜しい。折角なので「Bクラブ」を見に行く。バス停を過ぎ、畑の間の細道から河原へ。草の茂り具合から察するに、往来はほとんどないようだ。泉岩を過ぎた辺りから見渡してもそれらしい石が見つからない。辿り着けるか不安になった頃、遠い記憶の片隅に残っていた石の姿が目に止まる。「Bクラブ」の石は結構遠くにあり、割と大きくて立派だった。
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見るだけのつもりが、結局触ってしまう。この日4回目で登れた。登れて初めて理解できることは多いものだが、実に面白い課題だった。三次元的に力の向きを微調整しながら、細かいスタンスを拾って足を上げて行く。リップを叩いてからのマントルはそれほど悪くはないが、この一連の動作の面白さをなんと形容すればいいのだろう。自分のイメージの中にあるボルダーらしいボルダー課題とは、まさにこれだと思った。課題が登れてこれほど嬉しかったのも久し振りで、ボルダリングの楽しさを再認識できたといったら言い過ぎだろうか。10:30撤収。少々渋滞があり、帰宅は13:00になった。
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# by tagai3 | 2014-09-26 22:23 | Comments(0)

薬研滝の缶ビール

9月14日(日)曇
笛吹川東沢釜沢から甲武信岳に登る。前日のうちに西沢渓谷まで入り駐車場で車中泊したが、この日はものすごい渋滞で東名、圏央道、道志村、大月経由で5時間超かかった。
朝4:50に出発。山の神6:40、釜沢出合8:30、甲武信小屋水場13:15、甲武信岳14:10。
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朝方、鶏冠尾根上空に遭難救助のヘリを見る。釜沢は美しい沢だったが過剰な赤テープと指導標でルートファインディングの楽しみがほぼ完全に奪われていることに憤りを覚えた。これでは田部重治の感動を追体験することなど到底できない。
戸渡尾根経由駐車場下山19:00。行動時間14時間超はさすがに応えた。精一杯歩いて昭文社のエリアマップのコースタイムどおりにしか歩けなかったことになる。同図の説明には40~50歳の2~5人パーティが基準とあり、少し前まではかなり遅い部類として、端から馬鹿にしていたのだが、今や自分もその年代となり、図らずも加齢による衰えを突きつけられる形となった。クライミングをしていても、もう以前のようには体が動かない。悲しいことだが、受け容れなければいけない現実なのだろう。
途中、「ヤゲンの滝」の下の釜で缶ビールが浮かんでいるのを発見する。ところどころ塗装のはげたエビスビールの缶はボコボコに窪んでいたが、驚くべきことに栓は開いておらず中身も詰まっていた。製造年月2014年7月、賞味期限2015年とあったので、少し迷ったが持って帰ってきた。果たして飲めるだろうか。
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(後記:9月23日試飲。特に問題もなく、美味しくいただきました。)
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# by tagai3 | 2014-09-20 11:54 | 徒然 | Comments(0)

めも

『小森宮・井形・山本は第五峰の一側稜を試む。既に立派な踏跡の出来上がっている八ツ峰主稜には最早岩登りの面白さを期待できない。前日相馬・杉浦の一行を待ち合わせながら私は五、六峰附近の長次郎側側面を詳細に観察して、そこに二、三の可能なるルートを心に画いた。そして今日、経験の若い二人をつれるのに適当な場所としてその一つを選んで攀った。三人であった為に綱が不足であったり、ルックのやりとりに手間取ったりで思ったより時間がかかったが、登りきった所は第五峰より一つ東に寄った、あまり目立たぬ峰頂であった。帰京後調べてみたらRCC報告第三号の巻末折込みに「八ツ峰第六峰フェイス」と題していいスケッチがあった。私らのルートは中頃で右に左にトラバースがあったが、それから上部はリッヂクライムで頂点に立ったもので、該スケッチのA点とDの峰頂とを結ぶ一線が大体私らのクライミングルートを示す。ちなみにその図中に六峰とあるのは私らの慣習的呼称に従えば五峰である。』

「登高行第10年」の2段組みの記録欄に「剱岳 立山 針ノ木峠」のタイトルで小さく記されている。昭和10(1935)年7月13日~24日の期間に人夫を含めて総勢25名で行われた夏季合宿のある一日の記録。富山から芦峅寺を経て別山乗越まで3日、その後の3日間も雨に振られ、ようやくこの前日から行動を開始している。この後も雨に悩まされ、22日にベースを撤収し平ノ小屋から針ノ木峠を経て大町に下山している。黒部ダムまでのトロリーバスの運行開始が昭和39(1964)年、アルペンルート全通が昭和46(1971)年なので、当然のことながら当時は全行程を歩かなければならなかった。日付には昭和10年7月20日とあるが、文章だけではどこを登ったのか分からない。RCC報告第三号の巻末折込みのスケッチと見比べると、はじめてこのルートが現在「剱稜会ルート」と呼ばれているものであることが分かる。
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この事実は山崎安治(1919-1986)が「岳人」331号(1973年5月)で紹介したことで広く知られるようになった。以後に出版されるルート図集では初登者名は改訂されたが、一旦定着した名称は消えることなく現在に至っている。それにしても、これを発見した山崎安治はたいしたものだと思う。
ちなみに、RCC報告第三号の巻末折込みの注によれば、このスケッチは中村勝郎(1907-1993)の手によるもの。中村は本職の画家で、藤木九三の「屋上登攀者」の挿絵を始めとしてRCC関連の書籍の装丁等を手掛けたことでも知られている。実際、岩波文庫にも収録されている「屋上登攀者」の魅力の大半はその挿絵に拠るところが大きく、このスケッチも小森宮らが関心しただけあって、実に見事な出来となっている。

では、何故「剱稜会ルート」なのか?どうやら、その理由も「岳人」に由来しているらしい。「岳人」39号(1951年7月)掲載の「剱・東面長次郎谷を中心として」という記事の中で、藤平彬文という人物が自身の所属する剱稜会の南彬、藤平正夫と共に昭和23(1948)年8月にⅥ峰Cフェースの「リッジルート」を登ったことを記している。この中には初登攀だったとは一言も記されていないが、戦後の混乱期、登攀者同士の情報伝達手段が限定されていた中で初めて公にされた記録だったことから、以後このラインは「剱稜会」ルートと呼ばれるようになる。藤平彬文の経歴や剱稜会について記載された資料は未見だが、AACKのアンナプルナⅡ峰(1953)やチョゴリザ(1958)への遠征に参加し、後に日本山岳会会長を務めた藤平正夫(1924-2003)は、著書「今は風をして語らしめよ」(桂書房1986)の中で、戦後の京大在学中、次兄と高校の先輩である義兄M(南?)氏との三人で剱岳本峰や八ツ峰、源次郎尾根の壁にいくつかのルートを拓いたと記している。また、昭和22(1947)年7月の「剱岳東大谷中俣夏季登攀」(山崎安治編「日本登山記録大成9剱岳Ⅲ」(同朋舎出版1983)収録)の記録には、富山高校山岳部名で兄「彬文」と共に偵察を行った旨の記述がある。上記「岳人」の文中には、富山高校から北大に進んだ佐伯富夫(1929-1990)の名も見えることから、剱稜会は富山高校山岳部のOB会のような存在だったと推測される。「岳人」の初代編集長伊藤洋平(1923-1985)と藤平正夫は京大山岳部の同期で、当時の伊藤は広く京大関係者に記事を求めていた(同誌806号 2014年8月 斎藤清明氏の寄稿より。)ということなので、そうした事情も「剱稜会」の名称定着に一役買ったのかもしれない。また、藤平正夫は「岳人」第2号(1947年6月)の「剱岳東面(日本の岩場)」という記事の中でⅥ峰の4つのフェイスの概念を解説しているが、この段階では「リッジルート」に触れていないので、或いは本当に既登ラインであることに気付いていなかったのかもしれない。

だが、最も気になるのは、本当の初登者の3人(小森宮章正(1914-1940)、井形健一(1914-1959)、山本雄一郎(1916-1946))が一体どういう人たちだったのかということだ。調べてみると、これが実に興味深く、彼らの経歴を振り返ることで、彼らのグループの当時の姿や時代背景が実に鮮明に浮かび上がってくるように思われた。

小森宮については「岳人事典」(東京新聞出版局1983)に山崎安治による略歴が掲載されている。出典は「山岳」35年2号(日本山岳会1941)収録の金山淳二(1909-1995)、谷口現吉(1910-1992)による追悼文「小森宮章正君を偲ぶ」及び「登髙會々報7」(海瀬栄一郎編1941)の追悼特集とみられる。
「山岳」に追悼文を寄せた2人は剱岳八ツ峰主稜の積雪期初登攀(昭和7(1932)年4月)を小川登喜男(1908-1949)や早大山岳部と争った人々で、大島亮吉(1899-1928)の没後、一時停滞していた慶大山岳部の中興の祖となったことでも知られている。当時商社員としてインドに駐在していた三田幸夫(1900-1991)は、英独両国による挙国的なヒマラヤ遠征やフランク・スマイス(1900-1949)らによるカメット(7756m)初登頂(1931年)の報に接して激しい焦燥に駆られ、一刻も早くヒマラヤに来るよう督促する手紙を東京の後輩達に宛てて送る(注1)が、それに触発されて当時世界最新鋭の登山技術であった極地法の独習を企図したのが金山、谷口の両名で、これを一定水準以上の完成形に仕上げたのが小森宮だった。
大正3(1914)年2月24日、現在も御徒町で営業している貴金属宝飾店の長男として東京神田に生まれる。千駄木小学校、府立第三中学校(現両国高校)を経て、昭和6(1931)年経済学部予科入学。当時の慶大山岳部は新入生の勧誘を一切せず、夏季山行の一般学生参加募集を通じて徐々に入部者を集めるという方式を採っていたため、入学早々山岳部の門を叩いた小森宮の姿はかなり印象的だったらしい。前掲書の追悼特集には「短身ファイトの権化」、「意思力の人」との評が並び、熱心な修練を重ね、極めて短期間でスキーを習得した逸話なども紹介されている。仲間うちでは「コモリ」、「コモリさん」という呼称で通っていたが、日焼けして浅黒い丸顔、クリクリとした黒目の輝きから、「ナマズ」という綽名もあったらしい。わずかに残る遺影を見ると、なるほどと思わせる部分もあって、失礼ながら思わず笑ってしまった。
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卒業直後に夭折したため、彼の山行記録はほぼ学生時代のものに限られるが、特に岩登りへの傾注は注目に値する。「登高行Ⅸ」には、昭和7(1932)年10月10、11日に桜井壽雄と行った「谷川岳一ノ倉沢本沢」登攀の記録がある。「一ノ倉沢本沢」とは一般にいう「四ルンゼ」と解釈できるが、「四ルンゼ」の初登攀及び第二登はこの前年同月(青学の小島隼太郎(1908-1988)、大倉寛、井上文雄(10/17、18)、東大の小川登喜男、桑田英次(10/18、19))であり、極めて早い時期の再登記録である(注2)。山口清秀(1906-1979)が徒歩渓流会入会前に単独で一ノ倉沢に入り始めるのがこの年で、成蹊高校の渡辺兵力(1914-2005)と高木正孝(1913-1962)による中央奥壁登攀が同年、二ルンゼ・ザッテル越えの登攀はこの翌年のことになる。また、「登高行Ⅸ」の小森宮の筆による「北鎌の岩小屋を中心として」という文章では、昭和9年までの二夏に行った槍ヶ岳北鎌尾根千丈沢側稜の登攀報告がある。文中にあるとおり、A稜初登は昭和6(1931)年の京都医大によるものだが、それ以外の主要ルートの初登は飛騨中尾の案内人、小瀬紋次郎(1900-1983)を同伴した小森宮らが行ったものとみられる。「日本登山体系7槍ヶ岳・穂高岳」(白水社1980)によれば、グレードはC稜がⅣ級(5.3~5.4)、D稜がⅣ級-(5.2~5.3)となっており、当時の最前線と比較してもそう劣るものではなかったことが分かる。「小柄でがっちりとした体躯」では決して岩登り向きではなかったと想像できるが、持ち前の努力で不利を克服していったのかもしれない。
昭和8(1933)年1月の西穂高岳稜線上の高所露営から本格的な極地法訓練に着手。昭和11(1936)年12月~翌年1月、剱岳早月尾根から八ツ峰上部を登攀。これは前年同季に谷口現吉が企画し、大雪のため早月尾根1800m附近で敗退していた計画に再び挑んだもので、早月尾根からの登頂は果たしたものの、八ツ峰下部までの完登はならなかった。昭和12(1937)年3月経済学部卒業。同年4月文学部社会学科に学士入学。この年の夏季休暇には満蒙国境を旅し、ハルハ河北岸を特務機関のトラックで移動中、遊牧民の包の中で偶然にもその年の5月から独り満蒙の地を放浪していた加藤泰安(1911-1983)と出会っている。その附近は2年後のノモンハン事件の現場となったところである。

「第一日目の午後、私はある「ユルタ」の中で例のお茶を飲んでいた。突然トラックの轟きとともに何人かの日本人が「ユルタ」に乗りつけてきた。その中の一人の学生がいきなり私に駆けより、
「タイアンさん」
というではないか。びっくりして見ると、慶応大学山岳部員の小森宮君だった。彼とはいっしょに山に登ったことはなかったが、上高地の「常さん」(注3)の山小屋の常連で何度か飲み合った仲だった。そして、いつかはヒマラヤや、中央アジアへの旅をしたいと語り合っていた。全く偶然の会合ではあるが話は尽きない。彼は今日中にハロンアルシャンに行くといい、そこでゆっくり語り合おうと何度も私を誘い、私は西方ボイルノールに行こうと誘ったが、結局彼は便乗している軍のトラックから降りることはできなかったし、私もハロンアルシャンに二度と帰ろうという気にはなれなかった。この草原の別れが彼との永久の別れとなった。彼はこの数年後戦場にその生命を散らしてしまった。私は今でもこの別れの一ときをありありと思い浮かべ、亡き岳友の面かげを思い出す。」
(加藤泰安著「放浪のあしあと」創文社1971「草原の旅」より)

満州滞在中に盧溝橋事件(7/7)が発生。支那事変に拡大したため、予定を切り上げ9月に帰国。昭和13(1938)年4月文学部を中退。以後は家業に従事した。同年7月結婚。8月(7/28~8/17)山本雄一郎らと共に台湾中央尖山に遠征。これが彼にとっての最後の山行となる。10月~11月には新婚旅行で北海道・東北を巡る。この途中北大山岳部で行った講演の記録が同部に残っているらしい。旅行中に召集を受け急遽帰京。12月1日麻布歩兵第三連隊に入隊。同22日満州北部北安鎮に派遣される。昭和14(1939)年5月歩兵科幹部候補生、9月甲種幹部候補生となり、12月予備役将校生徒として奉天南部部隊に派遣される。昭和15(1940)年4月3日急性肺炎のため奉天陸軍病院にて戦病死。享年26歳。行軍中泥に嵌って動けなくなった車列の進行を助けるため、自ら泥水に浸かって進路の探索と指揮に当たったが、着衣を濡れたままにしたことから体調を崩し、発熱から一週間余りで急逝したという。

注1:厳密には三田書簡(1930/8/25付)とカメット初登頂(1931/6)は日付が逆だが、彼らがこの書簡を目にするのはロータンパス行(1932)が掲載される「登高行Ⅷ」誌上であり、時代的には同じ空気の中にあったといえる。
注2:初登の青学隊、第二登の東大隊はいずれも秋の渇水期を狙って入山しており、記録公表(「山と渓谷」13号(1932/5)誌上特集「新しい岩場を求めて」中の桑田英次による「一の倉澤正面壁第四ルンゼの登攀」。タイトルは「四ルンゼ」だが、同文中でも「本澤」を併用する等呼称は確定していない。)の後、最初のシーズンでの再登ということになる。場合によっては第三登か。青学隊は登攀後、山頂で出会った慶大山岳部のテントで一夜を過ごしていることから、直接的な情報伝達があったとも考えられる。
注3:内野常次郎のこと。

井形も戦前の慶大山岳部を代表するリーダーの一人だが、残念ながら他の2人程メジャーではなく、彼についての資料は限られている。大正3(1914)年6月6日福岡県生まれ。昭和8(1933)年経済学部予科入学。学齢では早生まれの小森宮の1つ下だが、入部年次は2年下になる。「登高行」第17号所載の追悼文によれば、同期の太田敬より2歳年長とあるので、あるいは第五高等学校等を目指して浪人していたのかもしれない。昭和12(1937)年12月西穂高岳から奥穂高岳を登攀。「登高行」第11年を編集。井形の文章には独特の情趣があり、登山における組織と個人の相剋という命題について、自らの葛藤を素直に表現した姿勢には好感が持てる。

「寡黙で姿勢の良い堂々たる体躯、太い眉、大きな目玉、彫りの深い顔、濃い髭、それに見事な胸毛。まさに“将軍”の綽名がピッタリであった。(中略)一見近寄り難い豪傑風であったが、笑顔は愛くるしかった。眼鏡の中の黒い瞳の奥に柔和な人柄がのぞいていた。」(「登高行」第17号掲載 太田敬による追悼文)

昭和14(1939)年3月卒業。地元九州の三井鉱山会社に入社。程なく召集され、昭和14(1939)年12月入隊。朝鮮での初年兵訓練時に小森宮の訃報に接する。その後、旧満州を経て中国各地を転戦。復員時期は不明だが会報の通信欄から、三井鉱山会社に復職していたことがうかがえる。1953年10月付の会報には、第一次マナスル(1953年)の終了後、講演旅行中に九州を訪れた辰沼幸吉(1916-1995)と八幡で会う約束がストの対応のために実現しなかったという記述がみられる。当時の三井鉱山といえば、戦後の集中排除による収益部門の分社化と石炭から石油へのエネルギー構造の変換による経営難から大規模な人員削減を余儀なくされ、労働争議が頻発していた。1953年のストは第一次三池争議と呼ばれ、彼の亡くなる1959年の夏から始まる第二次三池争議は暴力団や過激派が介入し、死人まででる大問題に発展する。当時の彼の住所は大牟田市内の社宅であり、将に三池争議の舞台である。これらの対応に追われ、健康を害してしまったのだろうか。「戦争が終わったら、また一緒に穂高を歩こう。」という友人との約束を果たせぬまま、昭和34(1959)年3月5日死去。享年44歳。

山本雄一郎(1916-1946)
大正5(1916)年4月24日、東京生まれ。昭和4(1929)年慶応義塾商工学校入学。同9(1934)年経済学部予科進学と同時に体育会山岳部に入部。7年の在籍期間中に総計84回664日に及ぶ山行記録を残した。S・ヘディン(1865-1952)に代表される中央アジア探検史に深い関心を寄せ、支那事変勃発(1937~)後も朝鮮半島や台湾への数度にわたる遠征を実践した。1938年8月の台湾遠征にはOBとして小森宮も参加したが、これが、彼らが行を共にする最後の山行となった。昭和15(1940)年1月、同部の5年来の宿願であった厳冬期の早月尾根から八ツ峰の登攀に成功。同年4月の小森宮の訃報には、2度目の台湾遠征で親友を失った直後に接している。昭和16(1941)年5月、「登高行」第13年を編集。
昭和17(1942)年1月在学のまま歩兵第59連隊に入営。北支派遣衣部隊所属陸軍中尉。敗戦後シベリアに抑留され、昭和21(1946)年3月18日スーチャン収容所にてチフスのため戦病死。享年29。
加藤喜一郎(1920-1987)は「山に憑かれた男」(文芸春秋社1957)の中で山本のことを実に印象的に述懐している。彼は山本の最後を推測し、過酷な収容所生活の中で部下を庇い、激しい労働を進んで引き受けたために命を落としたのではないかと記しているが、その十数年後、山本の最後を看取った戦友が遺族に伝えた話から、それが事実であったことが明らかになる。
「タコさん」という綽名の由来は諸説あるらしく、岩に吸い付くような大きな手と柔軟な体を使い巧みに岩を登ったからとも、山に持参したコップに描かれたタコの図柄から採られたとも言われている。見識が広く包容力に富み、誰からも慕われる人柄だったという。
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# by tagai3 | 2014-09-08 22:18 | クライミング | Comments(0)

岩登りについての所感