漂石彷徨



薬研滝の缶ビール

9月14日(日)曇
笛吹川東沢釜沢から甲武信岳に登る。前日のうちに西沢渓谷まで入り駐車場で車中泊したが、この日はものすごい渋滞で東名、圏央道、道志村、大月経由で5時間超かかった。
朝4:50に出発。山の神6:40、釜沢出合8:30、甲武信小屋水場13:15、甲武信岳14:10。
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朝方、鶏冠尾根上空に遭難救助のヘリを見る。釜沢は美しい沢だったが過剰な赤テープと指導標でルートファインディングの楽しみがほぼ完全に奪われていることに憤りを覚えた。これでは田部重治の感動を追体験することなど到底できない。
戸渡尾根経由駐車場下山19:00。行動時間14時間超はさすがに応えた。精一杯歩いて昭文社のエリアマップのコースタイムどおりにしか歩けなかったことになる。同図の説明には40~50歳の2~5人パーティが基準とあり、少し前まではかなり遅い部類として、端から馬鹿にしていたのだが、今や自分もその年代となり、図らずも加齢による衰えを突きつけられる形となった。クライミングをしていても、もう以前のようには体が動かない。悲しいことだが、受け容れなければいけない現実なのだろう。
途中、「ヤゲンの滝」の下の釜で缶ビールが浮かんでいるのを発見する。ところどころ塗装のはげたエビスビールの缶はボコボコに窪んでいたが、驚くべきことに栓は開いておらず中身も詰まっていた。製造年月2014年7月、賞味期限2015年とあったので、少し迷ったが持って帰ってきた。果たして飲めるだろうか。
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(後記:9月23日試飲。特に問題もなく、美味しくいただきました。)
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# by tagai3 | 2014-09-20 11:54 | 徒然 | Comments(0)

めも

『小森宮・井形・山本は第五峰の一側稜を試む。既に立派な踏跡の出来上がっている八ツ峰主稜には最早岩登りの面白さを期待できない。前日相馬・杉浦の一行を待ち合わせながら私は五、六峰附近の長次郎側側面を詳細に観察して、そこに二、三の可能なるルートを心に画いた。そして今日、経験の若い二人をつれるのに適当な場所としてその一つを選んで攀った。三人であった為に綱が不足であったり、ルックのやりとりに手間取ったりで思ったより時間がかかったが、登りきった所は第五峰より一つ東に寄った、あまり目立たぬ峰頂であった。帰京後調べてみたらRCC報告第三号の巻末折込みに「八ツ峰第六峰フェイス」と題していいスケッチがあった。私らのルートは中頃で右に左にトラバースがあったが、それから上部はリッヂクライムで頂点に立ったもので、該スケッチのA点とDの峰頂とを結ぶ一線が大体私らのクライミングルートを示す。ちなみにその図中に六峰とあるのは私らの慣習的呼称に従えば五峰である。』

「登高行第10年」の2段組みの記録欄に「剱岳 立山 針ノ木峠」のタイトルで小さく記されている。昭和10(1935)年7月13日~24日の期間に人夫を含めて総勢25名で行われた夏季合宿のある一日の記録。富山から芦峅寺を経て別山乗越まで3日、その後の3日間も雨に振られ、ようやくこの前日から行動を開始している。この後も雨に悩まされ、22日にベースを撤収し平ノ小屋から針ノ木峠を経て大町に下山している。黒部ダムまでのトロリーバスの運行開始が昭和39(1964)年、アルペンルート全通が昭和46(1971)年なので、当然のことながら当時は全行程を歩かなければならなかった。日付には昭和10年7月20日とあるが、文章だけではどこを登ったのか分からない。RCC報告第三号の巻末折込みのスケッチと見比べると、はじめてこのルートが現在「剱稜会ルート」と呼ばれているものであることが分かる。
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この事実は山崎安治(1919-1986)が「岳人」331号(1973年5月)で紹介したことで広く知られるようになった。以後に出版されるルート図集では初登者名は改訂されたが、一旦定着した名称は消えることなく現在に至っている。それにしても、これを発見した山崎安治はたいしたものだと思う。
ちなみに、RCC報告第三号の巻末折込みの注によれば、このスケッチは中村勝郎(1907-1993)の手によるもの。中村は本職の画家で、藤木九三の「屋上登攀者」の挿絵を始めとしてRCC関連の書籍の装丁等を手掛けたことでも知られている。実際、岩波文庫にも収録されている「屋上登攀者」の魅力の大半はその挿絵に拠るところが大きく、このスケッチも小森宮らが関心しただけあって、実に見事な出来となっている。

では、何故「剱稜会ルート」なのか?どうやら、その理由も「岳人」に由来しているらしい。「岳人」39号(1951年7月)掲載の「剱・東面長次郎谷を中心として」という記事の中で、藤平彬文という人物が自身の所属する剱稜会の南彬、藤平正夫と共に昭和23(1948)年8月にⅥ峰Cフェースの「リッジルート」を登ったことを記している。この中には初登攀だったとは一言も記されていないが、戦後の混乱期、登攀者同士の情報伝達手段が限定されていた中で初めて公にされた記録だったことから、以後このラインは「剱稜会」ルートと呼ばれるようになる。藤平彬文の経歴や剱稜会について記載された資料は未見だが、AACKのアンナプルナⅡ峰(1953)やチョゴリザ(1958)への遠征に参加し、後に日本山岳会会長を務めた藤平正夫(1924-2003)は、著書「今は風をして語らしめよ」(桂書房1986)の中で、戦後の京大在学中、次兄と高校の先輩である義兄M(南?)氏との三人で剱岳本峰や八ツ峰、源次郎尾根の壁にいくつかのルートを拓いたと記している。また、昭和22(1947)年7月の「剱岳東大谷中俣夏季登攀」(山崎安治編「日本登山記録大成9剱岳Ⅲ」(同朋舎出版1983)収録)の記録には、富山高校山岳部名で兄「彬文」と共に偵察を行った旨の記述がある。上記「岳人」の文中には、富山高校から北大に進んだ佐伯富夫(1929-1990)の名も見えることから、剱稜会は富山高校山岳部のOB会のような存在だったと推測される。「岳人」の初代編集長伊藤洋平(1923-1985)と藤平正夫は京大山岳部の同期で、当時の伊藤は広く京大関係者に記事を求めていた(同誌806号 2014年8月 斎藤清明氏の寄稿より。)ということなので、そうした事情も「剱稜会」の名称定着に一役買ったのかもしれない。また、藤平正夫は「岳人」第2号(1947年6月)の「剱岳東面(日本の岩場)」という記事の中でⅥ峰の4つのフェイスの概念を解説しているが、この段階では「リッジルート」に触れていないので、或いは本当に既登ラインであることに気付いていなかったのかもしれない。

だが、最も気になるのは、本当の初登者の3人(小森宮章正(1914-1940)、井形健一(1914-1959)、山本雄一郎(1916-1946))が一体どういう人たちだったのかということだ。調べてみると、これが実に興味深く、彼らの経歴を振り返ることで、彼らのグループの当時の姿や時代背景が実に鮮明に浮かび上がってくるように思われた。

小森宮については「岳人事典」(東京新聞出版局1983)に山崎安治による略歴が掲載されている。出典は「山岳」35年2号(日本山岳会1941)収録の金山淳二(1909-1995)、谷口現吉(1910-1992)による追悼文「小森宮章正君を偲ぶ」及び「登髙會々報7」(海瀬栄一郎編1941)の追悼特集とみられる。
「山岳」に追悼文を寄せた2人は剱岳八ツ峰主稜の積雪期初登攀(昭和7(1932)年4月)を小川登喜男(1908-1949)や早大山岳部と争った人々で、大島亮吉(1899-1928)の没後、一時停滞していた慶大山岳部の中興の祖となったことでも知られている。当時商社員としてインドに駐在していた三田幸夫(1900-1991)は、英独両国による挙国的なヒマラヤ遠征やフランク・スマイス(1900-1949)らによるカメット(7756m)初登頂(1931年)の報に接して激しい焦燥に駆られ、一刻も早くヒマラヤに来るよう督促する手紙を東京の後輩達に宛てて送る(注1)が、それに触発されて当時世界最新鋭の登山技術であった極地法の独習を企図したのが金山、谷口の両名で、これを一定水準以上の完成形に仕上げたのが小森宮だった。
大正3(1914)年2月24日、現在も御徒町で営業している貴金属宝飾店の長男として東京神田に生まれる。千駄木小学校、府立第三中学校(現両国高校)を経て、昭和6(1931)年経済学部予科入学。当時の慶大山岳部は新入生の勧誘を一切せず、夏季山行の一般学生参加募集を通じて徐々に入部者を集めるという方式を採っていたため、入学早々山岳部の門を叩いた小森宮の姿はかなり印象的だったらしい。前掲書の追悼特集には「短身ファイトの権化」、「意思力の人」との評が並び、熱心な修練を重ね、極めて短期間でスキーを習得した逸話なども紹介されている。仲間うちでは「コモリ」、「コモリさん」という呼称で通っていたが、日焼けして浅黒い丸顔、クリクリとした黒目の輝きから、「ナマズ」という綽名もあったらしい。わずかに残る遺影を見ると、なるほどと思わせる部分もあって、失礼ながら思わず笑ってしまった。
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卒業直後に夭折したため、彼の山行記録はほぼ学生時代のものに限られるが、特に岩登りへの傾注は注目に値する。「登高行Ⅸ」には、昭和7(1932)年10月10、11日に桜井壽雄と行った「谷川岳一ノ倉沢本沢」登攀の記録がある。「一ノ倉沢本沢」とは一般にいう「四ルンゼ」と解釈できるが、「四ルンゼ」の初登攀及び第二登はこの前年同月(青学の小島隼太郎(1908-1988)、大倉寛、井上文雄(10/17、18)、東大の小川登喜男、桑田英次(10/18、19))であり、極めて早い時期の再登記録である(注2)。山口清秀(1906-1979)が徒歩渓流会入会前に単独で一ノ倉沢に入り始めるのがこの年で、成蹊高校の渡辺兵力(1914-2005)と高木正孝(1913-1962)による中央奥壁登攀が同年、二ルンゼ・ザッテル越えの登攀はこの翌年のことになる。また、「登高行Ⅸ」の小森宮の筆による「北鎌の岩小屋を中心として」という文章では、昭和9年までの二夏に行った槍ヶ岳北鎌尾根千丈沢側稜の登攀報告がある。文中にあるとおり、A稜初登は昭和6(1931)年の京都医大によるものだが、それ以外の主要ルートの初登は飛騨中尾の案内人、小瀬紋次郎(1900-1983)を同伴した小森宮らが行ったものとみられる。「日本登山体系7槍ヶ岳・穂高岳」(白水社1980)によれば、グレードはC稜がⅣ級(5.3~5.4)、D稜がⅣ級-(5.2~5.3)となっており、当時の最前線と比較してもそう劣るものではなかったことが分かる。「小柄でがっちりとした体躯」では決して岩登り向きではなかったと想像できるが、持ち前の努力で不利を克服していったのかもしれない。
昭和8(1933)年1月の西穂高岳稜線上の高所露営から本格的な極地法訓練に着手。昭和11(1936)年12月~翌年1月、剱岳早月尾根から八ツ峰上部を登攀。これは前年同季に谷口現吉が企画し、大雪のため早月尾根1800m附近で敗退していた計画に再び挑んだもので、早月尾根からの登頂は果たしたものの、八ツ峰下部までの完登はならなかった。昭和12(1937)年3月経済学部卒業。同年4月文学部社会学科に学士入学。この年の夏季休暇には満蒙国境を旅し、ハルハ河北岸を特務機関のトラックで移動中、遊牧民の包の中で偶然にもその年の5月から独り満蒙の地を放浪していた加藤泰安(1911-1983)と出会っている。その附近は2年後のノモンハン事件の現場となったところである。

「第一日目の午後、私はある「ユルタ」の中で例のお茶を飲んでいた。突然トラックの轟きとともに何人かの日本人が「ユルタ」に乗りつけてきた。その中の一人の学生がいきなり私に駆けより、
「タイアンさん」
というではないか。びっくりして見ると、慶応大学山岳部員の小森宮君だった。彼とはいっしょに山に登ったことはなかったが、上高地の「常さん」(注3)の山小屋の常連で何度か飲み合った仲だった。そして、いつかはヒマラヤや、中央アジアへの旅をしたいと語り合っていた。全く偶然の会合ではあるが話は尽きない。彼は今日中にハロンアルシャンに行くといい、そこでゆっくり語り合おうと何度も私を誘い、私は西方ボイルノールに行こうと誘ったが、結局彼は便乗している軍のトラックから降りることはできなかったし、私もハロンアルシャンに二度と帰ろうという気にはなれなかった。この草原の別れが彼との永久の別れとなった。彼はこの数年後戦場にその生命を散らしてしまった。私は今でもこの別れの一ときをありありと思い浮かべ、亡き岳友の面かげを思い出す。」
(加藤泰安著「放浪のあしあと」創文社1971「草原の旅」より)

満州滞在中に盧溝橋事件(7/7)が発生。支那事変に拡大したため、予定を切り上げ9月に帰国。昭和13(1938)年4月文学部を中退。以後は家業に従事した。同年7月結婚。8月(7/28~8/17)山本雄一郎らと共に台湾中央尖山に遠征。これが彼にとっての最後の山行となる。10月~11月には新婚旅行で北海道・東北を巡る。この途中北大山岳部で行った講演の記録が同部に残っているらしい。旅行中に召集を受け急遽帰京。12月1日麻布歩兵第三連隊に入隊。同22日満州北部北安鎮に派遣される。昭和14(1939)年5月歩兵科幹部候補生、9月甲種幹部候補生となり、12月予備役将校生徒として奉天南部部隊に派遣される。昭和15(1940)年4月3日急性肺炎のため奉天陸軍病院にて戦病死。享年26歳。行軍中泥に嵌って動けなくなった車列の進行を助けるため、自ら泥水に浸かって進路の探索と指揮に当たったが、着衣を濡れたままにしたことから体調を崩し、発熱から一週間余りで急逝したという。

注1:厳密には三田書簡(1930/8/25付)とカメット初登頂(1931/6)は日付が逆だが、彼らがこの書簡を目にするのはロータンパス行(1932)が掲載される「登高行Ⅷ」誌上であり、時代的には同じ空気の中にあったといえる。
注2:初登の青学隊、第二登の東大隊はいずれも秋の渇水期を狙って入山しており、記録公表(「山と渓谷」13号(1932/5)誌上特集「新しい岩場を求めて」中の桑田英次による「一の倉澤正面壁第四ルンゼの登攀」。タイトルは「四ルンゼ」だが、同文中でも「本澤」を併用する等呼称は確定していない。)の後、最初のシーズンでの再登ということになる。場合によっては第三登か。青学隊は登攀後、山頂で出会った慶大山岳部のテントで一夜を過ごしていることから、直接的な情報伝達があったとも考えられる。
注3:内野常次郎のこと。

井形も戦前の慶大山岳部を代表するリーダーの一人だが、残念ながら他の2人程メジャーではなく、彼についての資料は限られている。大正3(1914)年6月6日福岡県生まれ。昭和8(1933)年経済学部予科入学。学齢では早生まれの小森宮の1つ下だが、入部年次は2年下になる。「登高行」第17号所載の追悼文によれば、同期の太田敬より2歳年長とあるので、あるいは第五高等学校等を目指して浪人していたのかもしれない。昭和12(1937)年12月西穂高岳から奥穂高岳を登攀。「登高行」第11年を編集。井形の文章には独特の情趣があり、登山における組織と個人の相剋という命題について、自らの葛藤を素直に表現した姿勢には好感が持てる。

「寡黙で姿勢の良い堂々たる体躯、太い眉、大きな目玉、彫りの深い顔、濃い髭、それに見事な胸毛。まさに“将軍”の綽名がピッタリであった。(中略)一見近寄り難い豪傑風であったが、笑顔は愛くるしかった。眼鏡の中の黒い瞳の奥に柔和な人柄がのぞいていた。」(「登高行」第17号掲載 太田敬による追悼文)

昭和14(1939)年3月卒業。地元九州の三井鉱山会社に入社。程なく召集され、昭和14(1939)年12月入隊。朝鮮での初年兵訓練時に小森宮の訃報に接する。その後、旧満州を経て中国各地を転戦。復員時期は不明だが会報の通信欄から、三井鉱山会社に復職していたことがうかがえる。1953年10月付の会報には、第一次マナスル(1953年)の終了後、講演旅行中に九州を訪れた辰沼幸吉(1916-1995)と八幡で会う約束がストの対応のために実現しなかったという記述がみられる。当時の三井鉱山といえば、戦後の集中排除による収益部門の分社化と石炭から石油へのエネルギー構造の変換による経営難から大規模な人員削減を余儀なくされ、労働争議が頻発していた。1953年のストは第一次三池争議と呼ばれ、彼の亡くなる1959年の夏から始まる第二次三池争議は暴力団や過激派が介入し、死人まででる大問題に発展する。当時の彼の住所は大牟田市内の社宅であり、将に三池争議の舞台である。これらの対応に追われ、健康を害してしまったのだろうか。「戦争が終わったら、また一緒に穂高を歩こう。」という友人との約束を果たせぬまま、昭和34(1959)年3月5日死去。享年44歳。

山本雄一郎(1916-1946)
大正5(1916)年4月24日、東京生まれ。昭和4(1929)年慶応義塾商工学校入学。同9(1934)年経済学部予科進学と同時に体育会山岳部に入部。7年の在籍期間中に総計84回664日に及ぶ山行記録を残した。S・ヘディン(1865-1952)に代表される中央アジア探検史に深い関心を寄せ、支那事変勃発(1937~)後も朝鮮半島や台湾への数度にわたる遠征を実践した。1938年8月の台湾遠征にはOBとして小森宮も参加したが、これが、彼らが行を共にする最後の山行となった。昭和15(1940)年1月、同部の5年来の宿願であった厳冬期の早月尾根から八ツ峰の登攀に成功。同年4月の小森宮の訃報には、2度目の台湾遠征で親友を失った直後に接している。昭和16(1941)年5月、「登高行」第13年を編集。
昭和17(1942)年1月在学のまま歩兵第59連隊に入営。北支派遣衣部隊所属陸軍中尉。敗戦後シベリアに抑留され、昭和21(1946)年3月18日スーチャン収容所にてチフスのため戦病死。享年29。
加藤喜一郎(1920-1987)は「山に憑かれた男」(文芸春秋社1957)の中で山本のことを実に印象的に述懐している。彼は山本の最後を推測し、過酷な収容所生活の中で部下を庇い、激しい労働を進んで引き受けたために命を落としたのではないかと記しているが、その十数年後、山本の最後を看取った戦友が遺族に伝えた話から、それが事実であったことが明らかになる。
「タコさん」という綽名の由来は諸説あるらしく、岩に吸い付くような大きな手と柔軟な体を使い巧みに岩を登ったからとも、山に持参したコップに描かれたタコの図柄から採られたとも言われている。見識が広く包容力に富み、誰からも慕われる人柄だったという。
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# by tagai3 | 2014-09-08 22:18 | クライミング | Comments(0)

その後

7月から運動を再開し、少しずつクライミングも始めた。昔の人は療養中に勉強したものだが、私の場合は結局あまりはかどらなかった。山崎安治(1919-1985)の「日本登山記録大成」や「日本登山史」、深田久弥(1903-1971)の「ヒマラヤの高峰」や「ヒマラヤ登攀史」はどこから何度読んでも面白いと感じるが、田口二郎(1913-1998)の「東西登山史考」(岩波同時代ライブラリー1995年)には正直がっかりさせられた。老人特有の独善、読むに堪えないポジショントーク、論理の飛躍のオンパレード。80年代以降の現代登山思潮の概観は発行後20年足らずで既に陳腐化している。若いころのクライマーとしての活躍が眩しい(甲南高校~東京帝大、大戦中の欧州アルプス、マナスルのアイスフォール突破等々)だけに、それが却って老醜を際立たせる印象を与えるといったら言い過ぎだろうか。文化論と事実の記述の相違はあるものの、資料考証の誠実さの有無に大きな違いがあるようだ。こういう文章は若いうちに書くべきものなのかもしれない。

7月12日(土)
柴崎ロックに行く。5.11aで腕が張った。

7月19日(土)
有楽町にエベレストの映画を見に行った。それなりに面白かった。映像の中のテンジンがいつも笑顔で居ることが、根深誠の「シェルパ」の記述(後輩たちに、「写真を撮られるときは笑顔で居なさい」と教えていたという。)を想起させて興味深かった。再現ドラマにも嫌味はない。個人的には戦前のエベレスト挑戦史やテンジンやヒラリーのBefore、Afterにより興味があるのだが、2時間の映画にまとめるとするなら、これくらいがちょうどいいのだろう。

7月21日(月)海の日
涅槃岩に行く。5.12a(エスパー)が登れたが、オンサイトは5.11b/cで精一杯。

7月26日(土)
連日の猛暑日で毎日のように人が亡くなっていると報じられる中を4時間かけて柴崎ロックに行った。気温は35℃で湿度は高く、風もない。直射日光を避けられたところで蒸し風呂のように暑いことに変わりはない。おそらく前日に夕立があったのだろう。壁は所々濡れており、乾いた部分も総じてシットリしていた。当然ながら我々の他には誰も居らず、ヒグラシだけが狂ったように鳴いていた。1時間程で2本だけ登って撤収。こんな中で5.11d(おちこぼれ)のオンサイトができたことはうれしかった。
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# by tagai3 | 2014-07-22 22:21 | クライミング | Comments(0)

PM2.5

5月31日(土)
Ng、Nn(ともに学生。山岳部の後輩。)とともに大やすり岩に行く。前夜泊6:00集合。6:15芝生広場を発つ。パノラマコースは入口で少し迷った。道そのものは10年前(!)より良くなったような印象もある。 約1時間半で取り付きへ。一般登山道は既に大勢のハイカーで混雑していた。
「夢のカリフォルニア」を登る。25m(5.10-)、30m(5.10)の2ピッチで廊下状テラス。1ピッチ目は出だしのフレークがやや悪い。2ピッチ目はジャミングに不慣れだと登りにくいかもしれない。使用ギアはキャメロット#0.75~3×2セット(1セットで十分)、#3.5、#4、トライカム#7各1。フォロー2人を隔時で上げたので時間が掛るのはやむを得ない。(7:45~9:45)
そこから「ミステリー」(5.12-)を触る。傾斜が緩く易しそうに見えたが、表面の風化が激しくA0で上に抜けるのも苦労する。大きめの靴を履いてきたことを少し後悔した。2回目でムーヴはほぼ解決できたが時間がないのでRPできないまま下降に移る。
5m×2回の懸垂で大やすりの基部に降り、そこから少し歩くと自家製ボルトが2本打たれた下降点があったので、約10mの懸垂で一般登山道脇(北西側)に降りた。腐食の進んだ支点にはやや不安がある。
登攀距離と垂直移動と水平移動の距離の比率を考えるとおよそ5:4:3なので、壁の平均傾斜角はおよそ60°ということになる。思ったより寝ている壁だった。(9:45~12:30)
続いて「ハイピークルート」を大テラスまで登る。30m(5.9)、45m(5.9)。使用ギアは同上。変化に富んだ素晴らしいルートだった。個人的には「夢の・・・」よりもずっと楽しいと感じた。出だしも含めて、変なリングボルトやビレー点につられてフェイスに逃げると悪くなる。5.9のグレードはおそらく全てクラック沿いに登ったときのもので、その方がずっと登りやすく、また楽しいに違いない。2p目終了点より登山道側へ15mの懸垂下降。(13:00~15:30)
16:00頃下山を開始し、途中、カンマンボロンや目立つボルダーを見学しながら17:00頃駐車場に戻った。
2人がしきりに森の美しさを褒めるので、注意して見ていると、確かにパノラマコース沿いの樹木はミズナラが中心で、カラマツの植林とは尾根を隔てて明確に仕切られていた。これには妙に感心してしまった。
気象庁は気象情報とともに黄砂やPM2.5の情報も発信している。この日のこの周辺の濃度はかなり高い値を示していたとのこと。心肺機能の低下した自分が息を切らせて口呼吸をしていたことが、数日後の気胸再発(6月10日)の原因になったのかもしれないと推測しているが、確かなことは誰にも分からない。
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# by tagai3 | 2014-06-15 19:41 | クライミング | Comments(0)

犬とご隠居

5月25日(日) 晴れ
神戸ボルダーを見に行く。神戸園に駐車料金のことを尋ねると、ご主人と猟犬らしき茶色の大きな犬を連れたご隠居さんの2人が出てきて、「岩が濡れているかもしれないから、料金は岩を見てからでいいよ。」と言ってくれた。岩登りに対して非常な理解を示してくれているご様子である。お言葉に甘えて、河原に降りてみると、果たして岩はどれも濡れていて、一番奥(デルタ?)の岩はクラックから染み出しが始まっていた。管理棟に戻ってご主人に挨拶する。秋になったらまた来ますといってその場を離れた。これまでここを訪れた人たちが地元との良好な関係を築いてきたことに甚く関心してしまった。もしかしたら、取り組むグレードとモラルの高さにはある程度の相関関係があるのかもしれない。
時間はまだ8時前である。まっすぐ帰るのも惜しいのでシャドウロックに行ってみると、これまでになく水嵩が低く、初めて来たときカワセミを見た水流間際の石(岩雪105号に石の記号アリ。)も触ることができた。どう登ってもやさしいが、中央のガバからSDスタートでアンダーを使って右上するラインは1級位あるかもしれない。シャドウロックは3月の掃除の甲斐もなく苔が戻っていて吃驚した。
やや登り足りないので灯明の湯の大ハングへ。一面チョークで真っ白。これにはさらに驚いた。適当に限定を作って30分ほど遊ぶ。SDから中央のガバを使わずに左上するラインはなかなか面白かった。
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# by tagai3 | 2014-06-06 22:43 | クライミング | Comments(0)

2014年春

3月23日(日)
東京都写真美術館「黒部と槍」鑑賞。槍を登る人は地下足袋を履いていた。長次郎は優しそうな目をしていた。

4月12日(土)
雷電山・辛垣城址ハイキング

4月20日(日)
海老名SA往復(寒気のため)

4月26日(土)
池田フェイス① ゴーストステップ×2回
肺に穴が開いてから体質が変わったように感じる。3キロ増えた体重がどうしても落ちない。何よりも全身持久力の低下が激しく少し動くとすぐに息切れしてしまう。今の自分に5.13は登れるだろうか。そう考えて以前トップロープで触ったまま登れずにいたルートに真剣に取り組んでみることにした。暖かくなってフリクションは悪くなるが、その分混雑は避けられるだろう。発表時にTRのオープンプロジェクトだったこともあり、TRへの負い目は少ないが、TRではロープが邪魔してムーヴが起こせないことにすぐに気が付いた。ボルトの腐食が激しく気は進まなかったがハングドックに切り替えてこの日は各駅停車で2便出した。クリンプの指が痛く皮もえぐれるので一日に何度もできない。壁は西向きで正午を過ぎると直射日光をもろに浴び、5本目のクリップはかなり悪くなった。この日の最高気温は25℃。おそらくこれを触れる気温の限界は22℃程度までだろう。
帰路、滝山街道の油平にある中村酒造で「千代の鶴」というお酒を買う。とても美味しかった。

4月27日(日)
小野田元少尉墓参・伊能忠敬記念館見学。
一月の訃報に接してから、氏についての沢山の本を読んだ。帰還直後から毀誉褒貶様々あったようだが、見事な人生であったことに間違いはなく、その生き方には敬意を感じずにはいられない。「らしく振舞う」ことの大切さ。見習いたいと思う。

4月28日(月)
池田フェイス② ゴーストステップ×3回

5月3日(土)
池田フェイス③ もっとDHA×4回 (RP・通算5回目)
前々日の雨でクラックからのしみだしが激しく、ゴーストステップは諦めざるを得なかった。やむなく前々回の最後にいいかげんな気持ちで触り2本目までクリップできずに敗退した「もっとDHA」という5.12 a/bのルートに取り付く。ホールドが細かく、登攀距離も短いこの手ルートではひとつのホールドの使用の可否が成否を分ける。そのため、大いに妥協して上から懸垂下降で掃除しながらプリクリップした。この日2回目のトライで大体のムーヴは分かったが、2本目のクリップはやはり悪い。3本目直前の核心ムーヴは足場も悪く自分のリーチではギリギリだった。この日3回目のトライではここで失敗し、ビレーヤーの肩の高さまで落ちる。この日4回目、通算5回目のトライでなんとかRPできた。結構悪い。右手人差し指にテーピングを巻いたのは正解だった。
15:00撤収。渋滞回避の目的で見学した滝山城址は結構面白かった。廃城好きとしては白亜の天守閣よりも草に埋もれた土塁の方により魅力を覚える。

5月4日(日)
終日、『9月、東京の路上で』という本を読んで過ごす。

5月5日(月)
里見公園・矢切渡し・柴又帝釈天

5月6日(火)
池田フェイス④ ゴーストステップ×2回

5月11日(日)
池田フェイス⑤ ゴーストステップ×2回
ようやく1テンに持ち込むが、既に5本目のクリップは不可能な気温になっていた。パワーエンデュランスを鍛えて秋に出直そうと思う。

5月17日(土)
柴崎ロックに行く。5.13と易しいルートが併存し、比較的涼しそうな岩場ということで行ってみることにした。10時着。混雑を心配したが、我々の他は山岳会系の6人前後のパーティだけで割と静かだった。「ジャックポイズン」という5.13 aのルートにアップなしで取り付く。どうせすぐには登れないと思ってそうしたのだが、意外にも悪いホールドはほとんどなく、ムーヴもきわめて明瞭だった。30分ほどの休憩後、完全に登れるつもりで再度取り付いたが、核心の手前で手順を誤り、持ち替えに手間取るうちに落ちてしまった。さらに30分の休憩後、3回目のトライでレッド・ポイント。登りやすいルートだったが、40代最初の5.13を素直に喜びたいと思う。
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# by tagai3 | 2014-05-12 22:40 | クライミング | Comments(0)

観光案内所

3月22日(土)晴れ
久須美に行く。約10年振り2度目。「バトルゾーン」は崩壊したようだが、「イカロスさんち」は健在だった。残念ながらこれ以外に目ぼしい石はない。けれども、平滑で細かいホールド、高いバンドへの立ち込みやトップアウトがいいアクセントになっていて、どの課題もクオリティは高いと思う。不人気の理由は交通の便と5.9~5.11というトポのグレード表示だけなのではないだろうか。ルートのそれとは当然違うのだが、それを理解できずに痛い目を見た人たちが2度と来なくなるというケースが繰り返されてきたことは想像に難くない。
1時間半程でトラヴァースを除く全ての課題を登る。結構前腕にきていたようで、翌日は久しぶりに筋肉痛が出た。帰路、天覧山を見学して帰る。花粉が辛かった。
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日原直上(5.10)
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ランニング・アー坊(5.10)

【グレードの感想】
1.キャッツ(5.11)→ 2級
2.日原直上(5.10)→ 1級
3.気分は日原(5.10)→ 5級
4.ランニング・アー坊(5.10)→ 3級
5.ルンルンひろし君(5.11)→ 1級
6.介錯人(5.10)→ 3級
7.スマッシュアンドラン(5.10)→ 3級
8.マーケット(5.9)→ 4級
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# by tagai3 | 2014-03-25 22:42 | クライミング | Comments(0)

残雪

3月8日(土)晴れ
武蔵五日市に行く。2週続きの大雪と週末の出張、先週の雨などで実に1ヶ月振りの山となった。シャドウロックを掃除して登る。雪解けの増水で下地は水没していた。苔を剥がしながら使えそうなホールドを探す行為は嫌いではない。岩雪105号や「関東の岩場」に拠れば、向かって右からNo1~No4の4つの課題があり、No3が5.10で最も難しいことになっている。けれども、左側のカンテと思しきNo4は登らなかったが、No3は最も易しく(5級位?)、中央(No2)と右(No1)はケビン村大ハングの「フェース」と同じくらいに感じた。いずれも5.9(Ⅵ)の筈だが、2004年頃に大ハングを掃除して一連の限定課題に「深呼吸」,「毒ガス」,「沢蟹」等の名前を付けた人達は件の「フェース」を3級としているので、今の基準では3級位なのかもしれない。
翌週(3月15日)、戸倉城跡から臼杵山を歩いた帰りにもう一度見に行ったが、水は引くどころか更に増えていたので、何もせずに帰った。真冬の渇水期でないと触れないのかもしれない。
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# by tagai3 | 2014-03-11 23:03 | クライミング | Comments(0)

会話

最近『〇〇〇』のⅩⅦとⅩⅧを改めて読んでみて、70歳、80歳の老人達にも20歳前後の若者だった時代があったという至極当然の事実を発見して驚いた。
私の持ち時間は7分間ほど。彼らの中の若者の部分に語りかけるつもりで、例え話として小森宮章正さんたちのルート(八峰Ⅵ峰Cフェイスの所謂「剣稜会ルート」)や大島亮吉さんの随筆の話題を入れたが、残念ながら、殆ど伝わらなかったようだ。まあ、初めから期待もしていないので、それも仕方がないのだが。
世代や登山観の相違を超えて理解しあえる部分があるとすれば、それは情熱の部分にほかならない。巨大な情熱を持っていた永遠の若者の象徴的な存在が大島さんだと私は思っているので、彼を記念する場所が失われようとしていることをなんとか阻止したいというのが、昨年暮にやっていたことの趣旨だった。でも、大島さん、ごめんなさい。無力な私にはなにもできませんでした。
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# by tagai3 | 2014-02-03 22:49 | 徒然 | Comments(0)

1月

12月29日(日)
TAKA-TORI。オートリヴァース左右一周ずつ。

1月1日(水)
TAKA-TORI。マッシュルームトラヴァース。

1月5日(日)
TAKA-TORI。自称ベテラン的な人たちが屯っていて非常に雰囲気が悪かった。あの人たちがここに現れたのはいつ頃のことなのだろう?少なくとも20年前には居なかった。人工壁の恩恵でクライミングの真似事を始めた点は我々若造と大差なく、品が無い分かえってタチが悪い。こちとらは、身体と相談しながら、それなりに真剣な問題意識を持って課題に取り組んでいるのだ。邪魔せんといてや。

1月12日(日)
Jyu-ri-gi。非常に寒かった。アメリカ淵まで歩くが対岸の降り口が分からず滝を眺めただけで帰る。夕焼けハング裏の大ハング(やや名前負け気味)を少しだけ登る。染み出しが酷かった。

1月18日(土)
TAKA-TORI。だんだん精神修養的なものになってきた。

2月1日(土)
Jyu-ri-gi。シャドウロックへのアプローチを発見。シャドウロックは高さおよそ6m。岩のてっぺんにさび付いたリングボルトがあった。傾斜はなく、一面苔に覆われているが、掃除をすればそれなりに楽しめるかもしれない。
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# by tagai3 | 2014-02-02 22:59 | クライミング | Comments(0)

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