漂石彷徨



ストーン・クルセイド ギルの章(翻訳)

啓示をうけたボルダラーにとって、ジョン・ギルという名前は特別な意味を持っている。それは革新とパワー、スタイルと専心を表す。ギルの課題はカルト的な領域に達し、このスポーツにおいて最初の伝説的な人物が設定した基準で自らの力量を試そうと世界中から多くのクライマーが訪れる。ギルの貢献は余りのも巨大であったため、「マスター・オブ・ロック(岩の達人)」というそのタイトルにふさわしい伝記が編まれている。(原注:パット・アメントによる「マスター・オブ・ロック」には1977年の初版とこれに新たな内容を追加し、増補改訂した第二版がある。ともにジョン・ギルの人と人生について詳しく知るために推薦できる。77年版が彼のボルダリングに焦点を当てているのに対し、92年版はボルダリング以外のクライミングとそこから離れた彼の人生そのものに焦点を当てている。訳注:第二版以降に邦訳はないが、「岩と雪」第159号(19938月)に初版(「ジョン・ギルのスーパーボルダリング」森林書房198410月)の訳者平田紀之が書評を寄せている。また、「ストーン・クルセイド」出版の4年後には、改訂第三版「ジョン・ギル マスター・オブ・ロック」(19985月)が上梓された。)今日の我々のボルダリングに対する見方について、ジョン・ギルほど巨大な影響をもたらした人物は他に存在しない。

ギルは1953年にアラバマでクライミングを始めた。友人にこのスポーツを紹介された時、彼は高校2年生だった。クライミングについての最初の知識はほぼ全て米国山岳会編の「アメリカ登山ハンドブック」とブリタニカ百科事典の「登山」の項から得たものだった。後者には重すぎる登山靴を履いた山岳ガイドが露出感のある崖を登る写真が載っていた。この写真がギルの想像力に火を点け、最初の彼の関心はロープを使ったクライミングに向かった。

ギルはたちまちクライミングの虜になった。「それは驚嘆するほど素晴らしく、自分の人生の全てが突然絡め捕られたように感じて、そこら中の岩々を巡り歩くようになった。クライミングの印象はそれほど鮮烈だった。」とギルは言う。「当時の自分にとって、難易度にはほとんど何の意味もなかった。すべては困難で危険に満ち、同時にそれまで経験したこともない冒険的でエキサイティングな生き方だと感じられた。」

大学でギルは体操のコースを履修した。6フィート2インチ(188cm)の体格は、床競技に不向きだったため、彼はロープ登り(当時は大学対抗競技会の正式種目だった)と吊り輪に集中した。直径1インチ半(3.81cm)のロープ登りを通じて、彼は爆発的な上半身の強さを身につけた。座った状態から足を使わずに、彼は規定の20フィートの高さを3.2秒で登ることができた。当時の世界記録に0.6秒劣るものの、素晴らしい記録である。吊り輪は彼の肩と後背筋を鍛え上げるのに役だった。「マスター・オブ・ロック」の中でポール・メイローズは次のように述べている。「彼が少し動くたびに、それらは躍動し盛り上がった。」ギルは反転十字懸垂ができ、特にバタフライ・マウント(体操選手が吊り輪に真っ直ぐぶら下がった状態から腕を真横に開いた十字懸垂の状態まで体を上げるとともに、両足をL字状に真っ直ぐ上げた後、両腕が床と垂直になるまで脇を締めていく技。)が得意だった。彼は2回続けてそれを行うことができた。

1950年代半ばから終わりにかけて、クライミングの動作はいわゆる三点支持を基本に静的に行われていた。動的な動きは制御不能の状態に陥った技術の劣るクライマーが苦し紛れに行う悪い見本とみなされていた。その当時、ギルはクライミングと体操の両方に強い関心を抱いていた。ギルは当時のクライミングの水準を観察した結果、クライミングと体操競技の2つのスポーツが身体運動としては極めて似通っているにもかかわらず、その動作について言えば、クライミングが体操競技の水準からはるかに劣っていることに気づいた。ボルダーに集中すればクライミングの難易度の水準を著しく進歩させることができるのではないかと考えた彼はボルダーについて体操的技能を発揮する対象として捉えた最初の人物となった。

こうした新しい考え方の下で彼が最初に取り組んだボルダーはティートン山群ジェニーレイク湖畔の3つの小さな花崗岩の塊だった。1957年と1958年に彼はここで当時行われていたどんなロープクライミングよりもはるかに難しい複数の課題を設定した。また、その翌年(1959年)にはレッドクロス・ロック東面の手がかりの乏しいバルジへの挑戦を開始する。バルジの下の胸の高さの位置にある割れ目は左手で掴めるが、右手で掴めるホールドはまったくなかった。左足の爪先で小さなエッジに立ち、右足で地面から飛び跳ねるスインギング・レイバックにより、右手が岩の上辺部の縁に届いたが、最初の試みは失敗に終わった。何度目かの挑戦の後、彼の指先は天辺から5フィート半程下の飲料瓶キャップよりもわずかに大きい小突起をピンポイントの軌道で捉えた。こうしてジョン・ギルはボルダリング史上で初となる困難でコントロールされたダイナミック・ムーヴに成功した。(訳注:現在この課題のグレードはオリジナルムーヴでV9、後年出現した中継ホールドを使ってV7とされる。)

ギルの登攀歴は3つの期間に区分することができる。195761年の第一期(3年間)、196170年の第二期(10年間)、197287年の第三期(16年間)である。そのボルダリング歴を通じて彼はクライミング界が規定した外的規範を顧みず、自らの発想に従い、如何なるものでもその時々で最も満足感が得られる登攀スタイル、すなわち、彼がいうところの”垂直の道”をたどった。

第一期に彼はフォームよりも難しさに関心を向け、ダイナミック・テクニックの実験を行うだけでなく、パフォーマンス改善を目的とする禅の瞑想やリラクゼイション法の修得にも取り組んだ。その期間を通じ、ティートン、ニードルズ、デビルズ・レイクや中南部各地で膨大なクライミングを実践する一方、多様なスタイルについての実験を試み、機能したものを残し、そうでないものを捨てていった。クライミングでの体操用チョークの使用を開始した他、ピトンハンマーによるホールドの拡張まで行っている。「50年代のボルダリング」(クライミング・アート誌第7号(19881月)というエッセイの中で、彼はこの珍しい事件をきまり悪げに回想している。「それは1959年、デビルズ・レイクで起きた。そのライン(訳注:ウィスコンシン州の章にマスター・オブ・ロックにも写真が出ている「リトル・フラットアイロン」とある。現在のグレーディングはV4とされる。)の成功の可否が自分だけの憶測の域を出なかったことが唯一の言い訳だが、それが当時も今と同じように、非倫理的で恥ずべき行為であったことに変わりはない。もしあの瞬間に自分自身の衝動を抑え、より適切な時期に再訪できていたら、あのルートは真に自分自身のものになっていただろう・・・」これに気づいたギルが同じ過ちを繰り返すことは二度となかった。

ギルはボルダリングを孤独の中での修練に最も適したスポーツと考えていたが、しばしば他の仲間ともボルダリングを共にしている。第一期の重要なパートナーとしては、イヴォン・シュイナードとリッチ・ゴールドストーンの二人を上げることができる。シュイナードを観察することで、彼は所与の課題に対し常に異なるアプローチの方法が存在することを学んだ。5フィート4インチ(162.6cm)の小柄でパワフルなシュイナードがより身長の高いギルと同じシークエンスを用いることはめったになかった。ゴールドストーンについてギルは極めて滑らで優雅に登り、当時の仲間の誰よりもボルダリングを真剣に捉えていたと評している。

ギルは自身の身体能力や特殊技能に相応しい課題を探し出すとともに、身体的な快感を得られる課題を探し求めた。オーバーハングした岩と切り立ったバルジは彼の長いリーチと力強いスィンギング・ムーヴにぴったりだった。かといって、彼がフットワークに無頓着だった訳ではなく、必要であれば、難しいスラブ課題を征することもできた。

ギルはこの時期にある種の評判を獲得する。ある者は彼の課題の難しさに強い印象を受けた。ギルは当時、それらの多くを登れる唯一の人物だった。ある者は彼をただのボルダラーとして切って捨て、またある者は彼が「変わり者」で、折角の才能を取るに足らない対象に空費していると考えた。ギルが他者の評価を気にすることはほとんどなかったが「マスター・オブ・ロック」(1977年)の中で、当時のことについて次のように語っている。「とにかく何か本当に充実したものを作り出したい、本当に重要な登攀を成し遂げたいと感じたのだ。」

やがてギルはサウスダコタ州ニードルズの30フィート(約9メートル)の尖塔に取り憑かれるようになる。珪質結晶の混ざった北東壁が全面にわたってオーバーハングするその尖塔は「スィンブル」と呼ばれていた。核心は課題の上半部から始まる。基部に設置された木製のガードレールが、この課題の特徴である恐怖感を一層高めた。仮に課題の下部三分の二のムーヴのいずれかで落ちれば、彼はこのガードレールに叩き付けられたことだろう。上部三分の一からであれば、ガードレールは避けられるが、極めて長い墜落の衝撃による負傷は避けられない。3回から4回にわたり、ギルはこの課題に挑むためにモンタナ州のグラスゴー空軍基地から500マイル運転してきた。リスクを伴うため、この課題はギルの他のどのルートよりも事前準備が求められた。そのために彼は激しいトレーニングを実行し、ルート上で遭遇するだろう突起状のピンチホールドに対応するため、ボルトとナットを摘んだ懸垂を行った。彼は絶好調で、戸口の側柱を使わずに連続3回の片腕懸垂を行うこともできた。

1961年の春、鋭いエッジや脆いノブをつかみ、身体が振られるムーヴに耐えて、遂にギルは「スィンブル」の頂に立った。以来、「スィンブル」は世界で最も有名なハイボルダーのひとつとなる。ロープなし、リハーサルなしの再登を迎えるまで、更に数年代の期間を要したが、その頃には既に心理的障害となっていた基部のガードレールは撤去されていた。この登攀は彼の評価を更なる高みへと押し上げ、彼を批判する者達を沈黙させた。この課題を試みた者、否、一度でも見上げたことのある者が彼を「単なるボルダラー」と呼ぶことは二度となかった。(訳注:現在のグレードではV5、最有力視される第二登の記録は1981年のグレッグ・コリンズによるもの。ジョン・シャーマンの再登が一部の山岳雑誌に初と誤報されたという記述がシャーマン自身の著作やマスター・オブ・ロック第三版にある。)

多くのハイ・ボルダラーが「スィンブル」をアメリカで最も印象的な課題と考えている。だが、ギルはこう言う。「スィンブルは私にとっては真のボルダー課題とはいえない。あれは少々高過ぎで、危険過ぎる。課題の中でダイナミック・ムーヴを使った記憶もほとんどない。私にとっての真のボルダリング・ムーヴはダイナミック・ムーヴだ。あの頃はそれがどんなに難しかろうと、スタティック・ムーヴを含む課題はたとえそれがボルダーの上で行われようと、ミクロ・クライム(矮小登攀)だと見なしたものだ。」ギルのボルダリングの定義では、リスクの極小化、ダイナミック・ムーヴ、(1960年代の基準による)B1以上の技術的難度が強調されるが、スィンブルには最後のひとつしかない。

「スィンブル」の登攀はギルの登攀歴第一期の終わりを告げるものとなった。その年のうちに彼は空軍を除隊して結婚し、アラバマで数学の博士課程に進むことになった。彼のボルダリング歴第二期は、家族(彼の娘は1965年に誕生する)と仕事への関心がより多くの時間を占めるようになる。だが、この9年間においても、ボルダリングは彼にとって重要な心のはけ口となった。ボルダリングに出掛ける時、彼は日常の心配事を忘れ、それらの替わりにクライミングの身体的な刺激と周囲の自然の美しさに集中することができた。オフィスでの卒業論文執筆等の感覚的欠乏状態から、彼はボルダリングに行くことで認知感覚が高まることにすぐに気づくことができた。空はより青く感じられ、岩との際限はより鮮明に引き立って見えた。この期間を通じ登攀フォームとスタイルはギルにとって一層重要なものとなっていった。

彼はアラバマからケンタッキー州マレーに移り、マレー州立大学で数学を教え、主にイリノイ州南部のディクソン・スプリングスで登った。1967年に彼はコロラド州立大学での数学の博士号取得のためにフォートコリンズに移る。ここで彼はもう一人のクライマー兼体操競技者のリッチ(リチャード)・ボーグマンと出会う。ギルはボーグマンの目をボルダリングに向けさせホーストゥース貯水池のボルダーの可能性の開拓を共に手掛けることになる。

ギルはホーストゥースで彼の最も有名な課題のいくつかを生み出した。メンタルブロックとエリミネーターは世界で最も有名な課題となっている。メンタルブロックの「左」(コーナーロック)、「中央」(標準ルート)、「ピンチルート」の3本のクラッシックは、すべて試み始めたその日に登られた。ギルはその際にトップロープを使ったが、当時の下地が落ちれば骨折は確実な状態であったことには触れておくべきだろう。後年、クライマーたちはテレビジョン・サイズのブロックのほとんどを撤去し、整地を行っている。それでも尚、多くのクライマーが今もこれらの課題を登るためにトップロープを使用している(訳注:これが書かれた1993年当時、クラッシュパットは未だ一般的なものとして普及していなかった。)。

その当時、ギルはほぼ唯一の真剣なボルダラーだった。パートナーが現れることはほとんどなく、自分の課題に興味を持ったクライマーにラインを示すため、彼はメンタルブロックとエリミネーターの取り付きに2インチ程度の小さな白い矢印を描いた。「このスポーツを育てたかったし、自分と同様にボルダリングに興味を持つ仲間が欲しかった。」1979年にギルはクリス・ジョーンズにこう語っている。「それは最前線を行くロッククライマーに興味を抱かせる唯一の手段だった。課題にグレードをつけ、小さな矢印を描いた。あんなことは間違いなくもうやらないよ。」他のクライマーがギルに対抗するために自分の新たな課題にチョークで矢印を描いたという話を聞いたときギルは思わず哄笑した。

ギルが開拓したコロラド州北部のエリアはホーストゥースのみに止まらない。エステス・パークではヘイガーマイスター・ボルダーを登り、ロッキーマウンテン・ナショナルパークではランピーリッジ沿いの孤立したボルダーを登った。スプリット・ロック、フラッグスタッフ・マウンテン、エルドラド・キャニオンにも足跡を残した。この時期に彼はパット・アメントと出会う。ボルダー市出身のクライマーで体操家でもあった彼はギルの親しいボルダリングパートナーとなり、やがてはギルの伝記作家になると同時に生涯の友となった。

ギルは彼自身の体操的な技能が1960年代半ばには衰え始めたというが、彼の強さは依然として目覚ましいものだった。彼は片腕で目一杯伸ばした全身を地面と水平にして一時的に保持する片腕フロントレバーの能力を磨いた。右腕で連続7回、左腕で連続6回の片腕懸垂ができ、鉄棒であれば片腕一本指懸垂も可能だった。最も驚くべき能力は表面の粗い横桁を片手で摘んだまま片腕懸垂をしたことだろう。多くのクライマーにとってギルのストレングス・トリックを真似ることは彼のルートを登るのと同様の目標となった。1969年のアメリカン・アルパイン・ジャーナル(訳注:米国山岳会年報。日本山岳会の「山岳」に相当する権威ある機関誌。)に掲載された「ボルダリングの技術」でギルは次のような視点を提示する。「上半身の基礎力は、フロントレバー、片腕懸垂、腕だけの蹴上がり、片腕マントル等で鍛錬する。ある特殊技能の鍛錬には吊り輪を使ったバタフライ・マウントや片腕フロントレバーが求められる。」ギルは続けてこう言う。「専門的ボルダラーは様々な幅の桁を使った懸垂で握力を鍛え、ドアの鴨居を使った片腕一本指懸垂でトレーニングする。」そしてここに免責条項が続く。「これらのエクササイズの全てを行う能力がボルダリングに必須という訳ではないが、これらの能力を顕示させることは、彼らのスキルにある種の磨きを掛け、クライミングに精巧さを付与し、その性質としてある種の特殊技能が求められる極限の課題を解決する際の一助となる。」ギルの力の曲芸は、再登を許さない彼の困難な課題の数々と相俟って、その評判を高めるとともに、場合によっては、神ならぬ普通の人にはボルダリングはとても無理だと感じた一部の人々を怖じ気づかせてしまった面があったかもしれない。

自身のクライミングスタイルを他のクライマーに説明するため、彼は数多くのエッセイを書いている。「ボルダリング技術」の中で、彼は自身が行うゲームについて定義している。彼はそれを「基本的には極度に困難な動きが強調された1ピッチのロッククライミング」と呼んだ。彼はまた、次のような哲学を前面に押し出した。「ボルダラーは登攀の正否と同様かそれ以上に登攀フォームに関心を向け、彼がそれを優雅に登るまでは真にその課題を解決したとは感じない。」ギルは新たなグレーディングシステムとしてBシステムを提唱し、彼が従来の練習登攀とボルダリングとを明確に区分できると感じる難易度にB11969年当時のロープを付けた登攀における最高難度である5.10のムーヴ)を付けた。彼はダイナミック・ムーヴについて語り、おそらくはクライミングの文脈の中で「デッドポイント」という言葉を使った最初の人物となった。

「ボルダリング技術」では、また、体操的な追求の対象としてのボルダリングを提唱している。ある人は彼のこのエッセイについて、もし彼がこのスポーツの第一人者として振る舞っていたなら、以後30年にわたりこのスポーツの在り方を規定することもできたに違いないとして、高く評価する。しかしながら、ギルの文章は時として彼の数学の証明のように濃密で難解であるとされた。多くのクライマーがギルの文章の冗漫さに足を取られ、そのエッセイの要点を見失ってしまった。多くの専門家にとってこのスポーツを定義したのは彼の文章ではなく、彼のボルダー課題だった。ギルのルートや彼が登る写真を目にしたクライマーは、それこそがボルダリングだと理解し、ギルのテストピースの再登若しくは同程度に困難な彼ら自身の課題の初登に血道をあげるようになった。ギルと同様に登攀フォームにも同等の関心を向ける者はほとんどいなかった。

1970年、ギルはいわゆるクライマー肘の最初の症状におそわれる。痛みのため彼は一年もの間クライミングから遠ざかり、これによって彼のボルダリング歴第二期が終焉を迎えることになる。

ギルがクライミングを再開したとき、彼は両腕懸垂4回がやっとの状態だった。その時は彼自身、ボルダリングの世界に戻りたいか否か分からなかった。彼にとってそのスポーツは余りにも有名になりすぎていた。コロラドはボルダリングの黄金時代を迎え、多くのクライマーがボルダリングを過剰なまでに真剣に捉えるようになっていた。ボルダラー達が課題の困難さばかりに執着すればするほど、競争は激しさを増していった。ギルは課題の難易度のみを過剰に偏重する単一思考の追求姿勢をこのスポーツにとり健康的ではないと見ていた。彼はその見解を「ボルダリング覚書・垂直の道」というエッセイの中でこう述べている。「エゴそのものと同様に、クライミングの外的感覚のみにとらわれ、単にそれが困難さと危険を反映する鏡の中で絶え間ない再主張を繰り返して行かなくてはならないある抽象概念に過ぎないとみなすことは、なんと意気阻喪させられることだろうか。」ボルダリングの外的感覚である難易度はこのスポーツの一面であるに過ぎない。困難な登攀はクライミング社会における信用の獲得という形で報われるため、ほとんどのボルダラーは他のすべての要素を排除して難易度の追求に没頭する。一方のギルはより得るものが大きいとして内的感覚をより重視するが、こうした境地に到達するためには、競争と決別することが必要になる。

南コロラド大学で数学教授の職に就くための1971年のプエブロへの転居は、彼がクライミングシーンと一定の距離を置くことを可能にした。街の西部に広がるダコタ・サンドストーンの小断崖に彼はよく一人で出掛けて、同じ課題を何度も何度も登ることによって各登攀がほとんど何の苦もなくこなせるようになるまでムーヴを洗練させていった。彼は体操家が追求するいわゆる浮遊感、「軽さ」の感覚に到達した。こうした「運動感覚的知覚」の状態への到達はギルにとって非常に重要な要素になっていった。

1976年、パット・アメントはプエブロ周辺でのギルの登攀を記録した白黒の短編映画を製作する。「ザ・サイレント・クライマー」(訳注:約15分のショートバージョンはVHSのビデオテープとして日本にも輸入され、目白のカラファテなどでも売られていた。それとは別にロングバージョンが存在し、ジム・ハロウェイの登攀シーンも収録されている模様。)は、それまで写真で想像するしかなかったギルの流れるような動きとそのパワーを伝えてくれる。あるシーンでギルは地面からランジした後、振られるのを止めたり、あるいは、よりよいホールドに持ち替えたりする替わりに、最初のムーヴの反動を利用して次のムーヴに移っていく。その途中ではいくつものハンドホールドが使われているが、最終的な登攀からは、ただ一つの浮遊動作を見ているような印象を受ける。まるで彼がゆっくりと確実にヘリウム入りの風船を上げているかのように。

運動感覚的知覚はギルが他の誰かと一緒にボルダリングをする時には得難いものだった。「私は常に誰かに見られることによって生じる余計な力を嫌ってきた。たとえそれが自分に味方する(成功を望む)ものであろうと、その逆(失敗を望む)であろうと。」だからといって彼がプエブロで常に一人で居られた訳ではない。クライマー達は「岩の達人」を相手に自らの腕前を試そうと、頻りに彼を連れ出そうとした。ギルは自分が生意気な若造に決闘を挑まれる年老いた西部のガンマンであるかのように感じた。クライマーの間でギルの課題に打ちのめされたという類の噂話とともに、挑戦者の失敗を目にしたギルの口元に薄笑いが浮かぶといった話が流布された。「ギルの口元の薄笑い」についてジョン・ロングは「パンピング・サンドストーン」の中でこう言っている。「それは間違いなく、僕が昔見た映画の中でアマチュア・ボクサーを眺めるモハメッド・アリの顔に浮かんでいた薄笑いだった・・・。」ある人は競争意識がもたらす負の側面を口外してきたギルがこうした決闘を受けて立ち、相手を蹴散らして勝利を得ていたことに不審感を抱くかもしれないが、ギル自身もそれを次のように認めている。「自分は普通の人間的感情の構造を全く超越できないでいる。」競争意識は30代後半から40代の彼にプエブロでの最難ルートの設定を促す要因となったかもしれない。彼はグレードB3、すなわち、再登不能の概念を好んだが、こうも言っている。「歳月を経て、そんな課題は実は存在しないということを学んだよ。」

プエブロにおけるギルの課題探求の多くは、クライマー仲間のウォレン・バンクスとともに行われた。バンクスはギルにカルロス・カスタネダの著作を薦めた。カスタネダの著作はドラッグ・カルチャーと同一視されていたため、ドラッグの使用に全く興味がなかったギルは当初その薦めに懐疑的だった。だが、ギルはすぐにカスタネダの本に魅了され、それらが示す手引きに従うことで、ドラッグを使わずに覚醒状態のまま夢の境地に至る方法を会得した。6年から7年にわたり、彼はしばしばボルダリング中または長く易しいルートのソロの際中にこうした意識変化の状態実験を行った。ある時には自分が岩の中と外を縫うように進む感覚をクライミング中に味わった。

1987年、50歳のとき、彼のボルダリング歴第三期はプエブロ西方の山中のある花崗岩の岩場で突然終わりを迎える。右手でホールドを取るために激しく跳躍した後、足と左手が岩から離れた。彼は着ていたシャツが破れたような音を聞いたと感じ、そのすぐ後で明らかに右腕に力が入らないことに気がついた。彼の二頭筋腱は肘関節から剥離し、筋肉がまるで風除けのウィンド・シェイドのように巻き上がり、彼の肩にグレープフルーツ大のコブを作った。彼は地面に落ち、静かにこう言った。「ああ、二頭筋を伸ばしてしまったよ・・・」腱は外科手術でつながり、一年半後にギルはその腕で片腕懸垂ができるまでに回復したが、怪我の再発の危険性が高まったことは彼にハードでダイナミックなボルダリングを諦めさせることにつながった。

ギルは主にそのボルダリングへの傾倒で知られるが、彼は長く易しいルートの登攀も同様に楽しみ続けていた。1994年に彼はこう記している。「ローガンピーク東壁を一人で登って以来、40年以上にわたり、長いがさほど難しくないルートのソロを続けている。多くの場合は、両足が同時に地面から離れることなしに二時間もの時間をただ一つのボルダーの前で過ごすという気力の削がれる体験との間で心の均衡を保つため、そして時には、最大限の努力による肉体的な苦痛からの救済として。私は慎重な探索と気楽な羽目外しが混在したこうした種類の登攀を続けてきた。」こうした登攀のほとんどは処女岩壁で行われた。時としてそれは「選択的ソロ」、すなわち、通常はロープなしで容易な岩塔やドームの高いところまで登り、その時の状況が登攀の一連の流れに沿ったものであれば、より困難な領域への迂回を含むものとなった。このような過程を経て彼は、その登攀がそれを行うために相応しい時間と場所であることを理由に、自分が500フィート(150m)以上の高さで5.9のムーヴをこなしていることに気づくようになる。こうして彼は再び、自分自身が最も納得できるものを追求する「垂直の道」をたどるため、一般的なクライミングスタイルから離れていくことになった。

現在(※訳注:本書の書かれた1994年当時)56歳のギルは彼の二番目の妻ドロシーと飼い犬のゴールデン・レトリーバーとともにプエブロ西方の平原に立つ綺麗に片付けられたソーラーハウスに住んでいる。彼の義理の娘とその息子は頻繁にそこを訪ね、彼は大学で教え続けている。彼は今も時間を作っては自分のガレージに赴き、吊り輪や雲梯、その他の手製のトレーニング器具で鍛えている。時々クライマー達がふらりと訪ねてくることもあり、そんな時彼は文法的に正確な独特の語り口で彼らの質問に穏やかに答えている。最近彼はパワフルな十字懸垂動作が求められ、自分の半分程度の年齢の若者を定期的に撃退する自身の課題「リッパー・トラヴァース」を再登した。ギルは自身の「垂直の道」の歩みを続け、今もそこにいる。


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# by tagai3 | 2018-11-08 22:28 | 翻訳 | Comments(0)

権狐

6月初旬にハイキングで通りかかった時に偶然見つけた。道は落石防護柵の隙間を縫って左にトラヴァースしていくが、そこに向かって右上から下ってくる押し出し状のガレ場の斜面の木立の中に、谷側が垂直に切り立った程よい高さのボルダーがあった。近づいてみると、それは文字通り、ただ一つ置き去りにされたような巨石で、谷側の面にはいい具合にホールドが続いていた。下部一面が炭酸カルシウムの粉に覆われ、リップに堆積した浮石がやや気掛かりだったが、掃除をすれば十分に登れそうに見えた。涼しくなるのを待ちわびて猛暑の夏を過ごす。秋の長雨にも祟られ、ようやく掃除に出掛けられたときにはもう9月の最終週になっていた。その日は約3時間、無心に掃除をする。デッキブラシを強く握り過ぎて、右手親指の付け根の皮が剥がれた。リップの厚い苔を剥がし、大きな石を幾つか取り除いた。その日は程なく雨が降り始めて撤収。ブナの木立で多少の雨なら濡れないことが分かった。翌週はアメダスのデータで前日朝に2ミリの降水があり、クラックからしみ出しがあった。2時間で2手進む。その翌週も同様のコンディションだったが、何とか更に2手進み最後の一手を残すのみとなった。第4週目。最後の一手が極めて悪い。その日5回目に今の自分ができる精一杯のムーヴでなんとか上に抜けた。垂壁のムーヴは中津川のピラニアに少しだけ似ていて、二段はあると思った。自分で見つけて掃除した中では出色の出来だと思う。
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# by tagai3 | 2018-10-22 22:23 | クライミング | Comments(0)

ギルの文章

「ジ・アート・オブ・ボルダリング - ボルダリングの技術」 (1969年 アメリカン・アルパイン・ジャーナル)

ジョン・P・ギル

登山活動にはさまざまな関心と特質に応じた幅広い側面がある。この刺激的な生き方の活力の一部がその多様性から導き出されていることに疑いの余地はない。これらの多様な側面の一端として延々と続く探検行や煩雑な輸送を伴う大規模な遠征登山を置くならば、もう一方の端には、より直截に達成の喜びや失敗の不満が得られる小スポーツとしてのボルダリングを置くことができる。これはイヴォン・シュイナードが持ち前のウィットで「即席の苦悩」と表現した娯楽である。

ボルダリングは本質的に極めて困難な動作が強調される単一ピッチのロッククライミングであるため、この表現の適切さに疑問が呈せられることはほとんどない。ボルダリングは通常、地面へのジャンプが可能な低い崖や大岩でロープに頼らずに行われる。より長いクライミングでは課題の性質に応じて上からか、あるいは下からロープを使用する形態がとられるため、極度に困難な5級の登攀はボルダリングと見なすことができる。ボルダリングと呼び得る困難な登攀には少なくとも5.10以上の難しさが含まれる必要があるため、墜落は日常茶飯事であり、パーティ全員が一切の墜落や飛び降りなしに登攀に成功した場合、その登攀をボルダリングと呼ぶことには多少の疑念が生じるかもしれない。

このような見地から、ボルダリングとは単にエキスパートのための訓練であるという結論が導かれるかもしれないが、このスポーツにはより多くの実体が伴う。ボルダリングには公式の芸術競技や体操競技と同様に非公式の競争が存在する。両者はともに非常に困難な身体操作をより優雅な方法で行うことが要求されるため、こうした比較は極めて妥当であり、それはまた、ボルダリングの新たな側面を明示する。すなわち、ボルダラーは登攀の成否と同様にそのフォームにも注意を払い、ある課題を優雅に登れるまでは、真にその課題を解決したとは感じないということである。ボルダリングにおける競争の精神は激しくなるが、これは嘆くにはあたらない。比較的安全な状況下でアグレッシブな熱気を発することは、より長くより困難な登攀において無秩序な感情の暴発を許すよりもはるかに勝る。ほとんどの洗練された観察者が認めているように、競争は現代ロッククライミングの最も決定的な特徴のひとつである。ボルダリングにおけるスポーツマン的競争はボルダラーがその技術的進歩を妨げる心理的障害を克服する上で有効かつ適切な役割を演じる。

体操選手が困難なムーヴやシークエンスを習得する際、特別な力と技術がその助けとなるように、ボルダラーもまた特定水準のクライミングの課題を解決するために特別な訓練を行うことができる。上半身の基礎的な練習には、フロントレバー、片腕懸垂、ゆっくりとした足を使わない蹴上がり、片腕でのマントルプレス等が含まれる。更に望ましい追加訓練としては、吊り輪での十字懸垂や片腕フロントレバー等がある。クライマーと岩との最も弱い物理的接点となる指については、持久力よりもむしろ純粋な強度やパワーに焦点をあて、できる限りの強化に努めるべきである。専門的なボルダラーであれば、さまざまな幅の梁での懸垂やドアの鴨居での片腕指懸垂等によって指の力を養うことができる。

これらすべての訓練を実行できる能力は、必ずしもボルダリングに不可欠というわけではない。だが、これらの技能を示すことは、しばしばその人のクライミングに磨きをかけ、特殊な技能が要求される極度に難しい課題を解決するために必要な精巧さを獲得することにつながるだろう。バランス課題には脚力や足指の強さが要求されるが、それを持つロッククライマーは珍しくはない。

筋肉の容積とその質に関しては一定の注意を払うべきである。筋肉の強靭さと容積との間ではある種の妥協が図られなければならない。何故なら、後者の優位性はロッククライマーにとってはほとんど役に立たないからである。対重量比での高い強度が特に望ましく、前述の訓練が質的に優れた筋肉の養成に役立つ一方、無計画なウェイトトレーニングはむしろ有害なものとなる。

これらの強靭さは高水準のボルダリングに不可欠だが、それ自体が成功を保証するために十分という訳ではない。ボルダリングは5級の登攀技術の究極的な洗練を求めるが、基礎的な強靭さだけでなく、特殊技能においても伝統的なロッククライミングとの間には大きな違いが存在する。多くの伝統的な登山家にとって技術的に忌むべき突然変異とみられてきたランジも、ボルダラーは安定的に利用する。ボルダリングではがっちりと保持できるホールドがほとんどないため、真に強力な保持力が必要となる。

ランジに類似するが、はるかに優雅でコントロールされた動作として、その名のとおり「ダイナミックレイバック」と表現するのが最も妥当な技術がある。反動をつけたこのレイバックには、自由落下に対してスピードを抑制することでスタート地点に戻れる特徴があり、こうした軌道修正ができない訓練不足のランジとは異なる。適切に行われる動的レイバックは、反動が静止する頂点、すなわち「デッドポイント」におけるクライマーの保持を可能にする。ここではランジ同様、反動によって獲得した高度を利用するために極めて強い指の力が要求される。動作の最中にコントロールの要素が加わるため、単純なジャンプやランジよりもはるかに多くの課題の解決が可能になる。クライマーが上半身の筋肉に適切に使えれば使えるほど、反動をつけている最中のコントロールを容易にするのは明らかだ。前述した訓練はこのときに役立つ。

伝統的なロッククライミングとボルダリングとの区別は比較的軽微であるが、ボルダリングにおける競争の明らかな存在故に、難易度の階層システム(グレーディング)の導入は可能だろうかという疑問が生じる。その答えはおそらくイエスだ。このようなシステムの1つとして次のようなものがある。まず、Bシステムにおいて、B1は5.10に相当し、B2はそれより難しく、B3が最高難度を示す。B3の課題は頻繁な挑戦を受けながらも、ほとんど再登されることのないものとなる。その難しさは持続性が求められ、どんなに印象的であっても単一動作のみによって課題全体の難易度が構成されるべきではない。Bシステム以外のはるかに客観的なシステムでは、排除の概念の応用が考えられる。ここではある程度多くの専門的ボルダラーが階層分けの対象となる課題に取り組む必要がある。E1はその難しさ故にただ1人の人物のみが登り得るものであり、E2は再登者を含めて2人のみという具合だ。E10を過ぎた段階でおそらくこのグレードは使われなくなるだろう。リーチと体のコンパクトさはBシステムをしばしば不合理にし、異なる強さのクライマーがグレーディングに異議を唱えるかもしれない。岩の本来の困難さではなく、あるクライマーの業績を強調するEシステムでは、こうした論争に煩わされることはない。

米国の人気のロッククライミングエリアのほとんどは、近くにボルダリングガーデンを持ち、ある場合には両者の活動が短いリードかトップロープ課題のいずれかの形でひとつに合併し、興味深くストレニアスな小演目となることがある。さらに、中西部または南部には快適で孤立したボルダリングガーデンが数多く存在する。そこでは極偶にしか探訪者を見ることはなく、そのほぼすべてが気軽な訪問のついでに伝統的なロッククライミングの心構えで難しさに対峙している。彼は伝統的な技術が使える課題のみを試み、時間の浪費はわずかに止める。このような作戦は追加的で客観的な危険が存在する山岳地帯やビッグウォールでは完全に合理的かもしれないが、ボルダリングガーデンではより運動競技的な姿勢を安全に採用することが可能であり、また、そうすべきである。ボルダリングの基準を適用するとき、低い岩に登ることははるかに有意義な行為となり、そうでなければ無名だった練習エリアも、このスポーツにとって重要な場所となる。


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# by tagai3 | 2018-09-21 22:07 | 書評 | Comments(2)

未公開エリアのチッピングについて

2月17日(土)

それまでも身に覚えのない苔が剥がされているのを見ていたので、別の誰かがここに来ていることは分かっていた。美観や植生への配慮を欠いた露骨な掃除の痕跡に多少の嫌悪感を覚えながらも、自分の感性とは懸け離れた拙いライン取りから、自分には無関係とさほど気にしていなかった。だが、それが大きな間違いであったことにこの日気づかされた。

滝の裏の一枚岩のやや高めの課題が登れた後、幸福な気分で残雪を踏みながら味噌桶沢出合に来てみると、どうも様子がおかしい。涸れ沢に渡された2本目の橋のたもとにある岩の、景観に配慮して敢えて残しておいた緩傾斜部の苔が無残にも剥がされ、丸裸にされている。そこから右上の斜面上の岩に目をやると、苦労して掃除した3m程の前傾壁の中央部のホールドが不自然に黄色味を帯びていた。近づいてみて愕然とする。指先2本がわずかにかかる程度だった石灰岩特有の針状の突起がなくなり、四本指すべてが第一関節までかかる三日月型のホールドに加工されていた。周囲の円形状のブラシ痕からみても、グラインダーなどで削ったのはほぼ間違いない。指先に穴を開けないように荷重するのが技術的な核心だった。易しくても(1級程度)、それなりにいいラインだったのに、それが永遠に失われてしまった。憤りと同時に言い知れない悲しみがこみあげてきた。

わざわざこんなところまできて、苔を剥ぐ位の人間なら、そこに登られた痕跡があったこと位一目で判別できた筈だ。にもかかわらず、こんなことをするなんて・・・。非公開・未公開であれば何をしてもいいとでも思っているのだろうか。執拗な掃除跡からみて、あるいは自ら公開したい希望を持っているのかもしれないが、低レベルに貶められたチップルートなど、一体誰が触りたいと願うだろうか。如何に軽薄な昨今でも、こんなことは認められないと思うのだが・・・。センスのない名前が付けられて、ある日動画でも公開されるのだろうか。何とも浅ましい。静かな環境が好きで昨年来度々足を運んできた。近いうちに親しい友人たちを案内したいと思っていたが、そんな情熱も急速に失われていくのを感じた。


削られたライン

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# by tagai3 | 2018-02-19 22:51 | クライミング | Comments(3)

NZ紀行

お土産
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くんた
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デビルズパンチボール
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お宿
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100年前
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白瀬中尉
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# by tagai3 | 2018-01-20 16:59 | クライミング | Comments(0)

NZ準備

距離が同じなら英国に行きたい私だが、安全性の問題であきらめた。ANZUS条約停止中で自主防衛、独自外交路線だから割と安全。
日本のおよそ4分の3の国土に宮城、福島を除く東北4県ほどの人口しかおらず、古代ポリネシア人も最後に到達した辺境の地ともいう。
カンタベリー地震後の復興状況も見てみたい。この国の有名人といえばエド・ヒラリーなので、「わがエベレスト」と「自伝」を読んだ。ついでにウィルフ・ノイスの「エベレスト、その人間的記録」も読んだが、これは面白かった。




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# by tagai3 | 2017-09-16 22:53 | 徒然 | Comments(0)

2017春

燕山
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山葵田
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御判形
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大滝裏
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# by tagai3 | 2017-05-25 22:39 | クライミング | Comments(0)

こばい

2017年2月26日(日)
城ケ崎の「こばい」に行く。城ケ崎は2010年5月以来およそ7年ぶり。最近はこういうところに誘ってくれる同年代の友人がいることをじみじみ有難く思うようになった。10:00頃から16:00頃まで、3人で色々なルートを登る。「こばい」実にいいところ。一羽のイソヒヨドリがじっと僕らを見ていた。
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# by tagai3 | 2017-02-28 22:37 | クライミング | Comments(0)

ゴーストステップ

ようやく池田フェイスの「ゴーストステップ」をレッドポイントすることができた。混雑回避でいつも暑い季節(2007年夏、2008年晩春、早秋)に来ていたことや、病後の体調確認のために取り付いていた期間(2014年春ゴールデンウィーク)もあったことから、10年越し、30回近い(27回?)トライを繰り返す結果となってしまったが、登れたことは非常に嬉しい。貧弱なスタイルであったことについては当然自覚しているが、加齢による体力と気力の衰えや、現下の生活環境を考えると、毎回漸進的な改善を感じながら取り組めたことはそれなりに楽しく、今の自分に相応しい登り方であったような気もする。

ルートの長さは12、3メートル。鏡のような垂直のフェイスに走るリス沿いのホールドを拾って直上する。一見アーケに終始する単純な保持力勝負のルートに見えるが、サイドプル、フィンガージャム(右手人差指のテーピングが有効)、ピンチグリップ、アンダークリング、二本指と一本指のポケット等々、多彩なホールディングが要求される。傾斜がない分、かなり悪いホールドでもある程度なら耐えられるが、指だけに意識を集中させるとあっという間に腕が張り、力が続かなくなってしまう。「幽霊の足跡」とはよく言ったもので、フットワークが攻略の鍵だった。靴はきつ目の方がいい。壁面から飛び出したホールドはほぼ皆無で、ポケットのエッジに押しつける様なスタンスが随所に出てくる。この点は昨今の人工壁の課題とは対局にあるといえよう。

核心は大きく分けて次の4つ。私は④の解決に一番苦労した。クイックドローはやや長めのものを使用し、カラビナは全てゲートを左向きにした。
① 離陸してからボルト2本目右上のポケットを取るまでの一連の動き
② 左手の穴と右手のピンチグリップを使って立ち込み、ボルト4本目直下のガバを取るところ
③ ガバから右手アンダーで体を上げ、左手2本指、右手1本指のポケットをつなぎ5本目のボルト右側のクリンプを左手で取るところ
④ 左手でクリンプを保持しつつ、右手でクロス気味に5本目のボルトにクリップし、J字型のホールドで体を上げるところ

チャートという岩質から、気温の条件も無視できない。3年前の春に全く保持できなかったホールドが今回はあっさり持てたことに驚いた。気象庁の過去データで見ると、最高気温で14℃、平均気温で20℃もの差があったことが分かった。汗ばむ時季に登れるほど甘くはなかったという証左であり、ムーヴそのものが全く別物になった。

ボルトについては、Free Fan 41号で紹介された直後の2003年7月にJFAが終了点の打ち替えとハンガー3枚の交換を行ったあるが、既にその時から14年近くが経過したこともあり、腐食はボルトの軸の部分まで進行している様に見受けられた。これに動荷重を掛けると思うと気持ちが委縮するが、そうかと言ってトップロープでは真上のロープが邪魔をしてムーヴを起こせないため、やむなくハングドッグでムーヴを確認したが、毎回ビクビクしながら取り付いていた。外側が雄ネジなので「KURE556」などの防錆潤滑剤を使えば軸だけ回して取り替えることもできそうだが、面倒臭さに加え「自分だけは大丈夫」という安全バイアスが働いたせいで結局実行できなかった。低すぎる1本目はボルトそのものが不要だとしても、せめて3本目と4本目はなんとかしたかった。

2017年1月14日(土)リード×2回
寒い時期に来たのは初めてで、フリクションの良さに驚く。3年前のことはほとんど忘れており、スタート部分に苦労する。何となく雰囲気が変わったように感じていたが、どうやら木が2本程切られたらしい。用事のため早めに撤収。

2017年1月22日(日)リード×2回、TR×1回
本来やるべきことを放擲して毎週遊び歩いていることへの自責の念に苛まれ、行為の意義について自問自答する。アップで取り付いた「ファーストフィンガー」に怖さを感じたのは寒さの所為か。指の痛さもあって3回が限度。各駅停車ながらムーヴを再構築できたのでとりあえずよしとする。

2017年1月28日(土)リード×3回、TR×1回
1回目でガバまで、2回目でガバから先がつながり、後の2回は上部を練習。ようやく3年前の春の状態(1テン)まで戻ることができた。

2017年2月4日(土)リード×4回
久し振りに他パーティ(2人2組)に遭遇。諸々の文化の相違に驚く。1か月近く雨がなく、カラカラに乾燥した人工林の中で「焼き石」をコンロで炙って平然としていられる神経が信じられない。スギやヒノキは生木でもよく燃える。万が一コンロが倒れて火事にでもなったらどうするつもりなのだろう。これまでベストシーズンを避けてきた理由を思い出す。気が散って集中できず。

2017年2月11日(土)リード×2回
1回目は最後のクリップ直後にスタンスを間違えて失敗し、2回目でRP。逆上がり居残り練習から解放された子供のような気分。正午過ぎに撤収し、帰路、秋川の中華料理店でささやかなお祝いをする。晩酌では350mlの銀河高原ビールを2本空けた。
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# by tagai3 | 2017-02-13 23:02 | クライミング | Comments(0)

低脂肪

2016年11月26日(土)晴れ
前々日の24日、都心では11月としては54年ぶりの初雪が観測され、積雪はわずかながらも明治8(1875)年の観測開始以来初と報じられていた。残雪によるアプローチの懸念はあるものの、翌日は雨の予報が出ていたのでSに無理を言ってこの日に出掛けた。八王子ICを下りると北側の法面には結構な雪が残り、路面も濡れていた。路面の凍結を避けるため普段よりもゆっくりと朝食をとってから氷川屏風岩に向かう。途中御獄付近から望まれる遠方の日当たりのいい斜面に雪がないことに希望をつないだ。
多摩川南岸道路のトンネルを抜け、橋を渡ったところから岩場に雪がないことを確認してようやく安堵するが、それと同時にはたして今の自分に登れるだろうかという不安が再び頭をもたげてくる。トレーニング不足による持久力の不安はいうまでもなく、年相応の疲労回復速度も依然把握できていない。おまけに一週間前に削ってしまった指の皮はまだ完全に回復していない。不安要素をあげればきりがないが、人生においては次の機会が不意に、しかも永遠に失われることが決して珍しくないことを肝に銘じ、手順さえ誤らなければ問題はない筈だと自分に言い聞かせながら通い慣れた岩場への急坂をたどる。
給水タンク脇の果樹園では柚子の収穫が行われ、秋に通い始めた頃は盛りだったイヌタデの花は茎だけを残して霜の中で萎れていた。残雪と落ち葉で滑りやすい箇所はあったものの、鬱蒼と茂る杉木立のお陰で道の状態は心配した程ではなく、C峰上の広場にわずかに残雪はあるものの、流水もなく壁は乾いていた。
懸垂下降でヌンチャクを掛けながら、ひとつひとつのホールドを確認する。20回近くのトライを重ねた今となっては、スタイルへのこだわりはどこかへ行ってしまった。腕が張ってくると、まさかと思うようなところで行き詰まるので、上部は特に入念に確認した。

水を飲んで一息ついた後、心を落ち着けて取り付く。気温が高いとわずかな日射で指先がはじかれるため、これまでは些細な雲行きにさえ一喜一憂してきたが、この日は肌寒く、日差しはむしろありがたい位だった。
この日の一回目。出だしの持ち替えはできたが、二本目のボルト直下、上下に二つ並んだのクリンプの下側右手が持てずに落ちる。このホールドは外傾していて甘く、アーケでは保持できない。皮を庇って人差し指の指先に力を入れられなかったのが原因だろう。
呼吸を整え、すぐに二回目に取り掛る。出だしの持ち替えでフルパワーとなるため、上部での疲労は避けられない。そのため勝負は最初の一、二回に限られる。件のクリンプとその上の左が止まり、足を踏み換える。右側のグルーで固められた突起に右足のハイステップを乗せたところで爪先がわずかに滑ったが、何とかフレークに手が届き二本目のボルトにクリップすることができた。人差し指の掛かる右手のクリンプから左のバンドを取った後、三角形のくぼみの縁に右手を寄せ、ヒールフックでバンドに立ち込んでいく。置きやすいところに左足を乗せてしまうと、次のボルトの直下のホールドに手が届かないため、二つ並んだツノ状の突起のやや下側に左足をかき込む感じで乗せなければならない。ここを突破した後でも、もう三回も失敗を重ねている。うち一回は最後の一手から大墜落した。慎重に右側のスタンスを拾い、がちゃがちゃしたホールドをパーミングで止めた。最後の四手。ホールドは大きいがそれぞれが遠い。この日はなぜかスムーズに身体が動いた。大事を取って最後のリップは小刻みに手を送る。天辺に這い上がり、Sを見下ろしながら終了点にクリップ。小さく歓声を上げた。こういう時は叫んでもいいだろう。Sがおめでとうといってくれた。こんなところに七回もつきあわせてしまったことを心から申し訳なく思う。

回収と掃除のロワーダウン。下るにつれ壁から身体が離れていくことで、下部の被りが如何に大きいかが分かる。それにしても、何と見事なラインだろう。ホールドの配置が絶妙で全く無駄がない。必要最小限のボルトとともに、無駄な贅肉が削ぎ落とされているという意味で「低脂肪」という名は実に相応しいものに思えた。
自分が初めてここに来たのは今から14年前(2002年)なので、草野俊達による初登(1988年3月6日)からその頃までとほぼ同じ長さの時間が流れてしまったことになる。当時は東北から戻ったばかりの頃で、黒本の表紙のマナヴさん、秀峰登高会のMさん、Kさんと一緒だった。その後、二、三度通ったが、マナヴさん、Mさんがその後次々とRPしたことや、アプローチが忌避されて同行者を得にくかったことなどが重なり自然と足が遠のいていった。今の自分の年齢が当時のMさんのそれ(40歳)を既に三つも越えていたことに今更ながら驚く。思えばトライを再開してからの二ヶ月間というもの、自分の心はこのルートに完全に支配され、寝ても覚めてもこのルートのことを考え続けていた。年齢や生活環境を言い訳に、何度逃げようとしたか分からない。そのたびに自分の弱さと向き合うことを強いられた。それも今日で終わりだと思うと、改めて嬉しさがこみ上げてきた。駐車場に戻ってからも、何度も壁を見上げる私を見てSは笑ったが、試練を与えてくれた聖なるもの(?)に対し、遙拝したいような気持ちになっていたことは確かだ。
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以下は氷川屏風岩の簡単な登攀史。
『奥多摩の山と谷』(奥多摩山岳会編・1958(昭和33)年・山と渓谷社)という本には次のような記述があり、氷川屏風岩が登られだしたのが、1957(昭和32)年前後であることが分かる。

「・・・前記二つの代表的な岩場(引用者注:葛籠(つづら)岩、越沢バットレス)以外に注目に価するものとして近年脚光をあびてきた氷川屏風岩があるが、未だ開拓途上にある・・・(中略)・・・何分にも藪が多く、所詮岩場としてはC級の域を出ない」

クライマーによる東京近郊の岩場探しは昭和4年頃から精力的に行われ、青梅線の青梅・氷川(現奥多摩)間の営業運転開始が1944(昭和19)年であることなどから、終戦直後から登られ始めたものとばかり思っていたが、実際は比較的歴史が浅いことが分かる。あれほど見栄えがいいにもかかわらず、社(やしろ)が祭られていないことも考えあわせると、昭和30~40年代に盛んに行われた人工林の植林以前は樹層も異なり、麓からは見えにくかったのかもしれない。これについては地元の古老あたりに訊いてみたいものだ。

また、同会編による4年後の『奥多摩』(1961(昭和36)年・山と渓谷社)という本には、A峰の「懸垂下降ルート」のほか、登路としては、A峰正面ルート(現在の「フェイスルート」(Ⅴ+))、B峰左ルート(現在の「トサカフランケルート」(Ⅳ))、B・C峰間右ルート(現在の「コンタクトルート」(Ⅲ+))の3本が紹介されているもののいずれも易しいフリールートのみで、人工登攀ルートは見られない。この本の出版当時、既に我が国の埋め込みボルトを使用した本格的な人工登攀ルートの嚆矢とされる谷川岳コップ状岩壁や屏風岩雲稜ルートは登られていた(1958(昭和33)年)ので、東京近郊の岩場の人工登攀時代は実は比較的短い期間(15~20年間程度)であったことが分かる。
70年代の『岩場ゲレンデガイド 関東編』(1977(昭和52)年・山と渓谷社)という本になって初めて、「奥多摩の岩場の中でも古くから登られ・・・」とか「人工登攀主体の岩場」という言葉が出てくる。この後、A峰正面のフリー化(1980年)、C峰Dフェイス左ルートのフリー化(「イクイイノシシ」(1984年小林幸雄))、同Dフェイス右ルート(?)のフリー化(1988年「低脂肪」)と続いていく。
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# by tagai3 | 2016-12-05 22:29 | クライミング | Comments(0)

岩登りについての所感