人気ブログランキング | 話題のタグを見る

漂石彷徨



仁寿峰の初登頂について

 クライミングジャーナル(以下「CJ」という。)19号(1985年9月)をはじめとして、仁寿峰の初登頂は1926年5月に英国領事館副領事のC.H.アーチャーと韓国人林茂(Im Mu)の2人により、白雲台との鞍部から現在の仁寿Cルート付近からなされたとされている。同誌3号(1982年2月)から、その典拠が英国のThe Alpine Journal(以下「AJ」という。)1978年号であることが分かるが、つぶさに記録を見ていくと、不明な点が多い事が分かる。

 まず、アーチャーについて。英国外務省の記録によれば、副領事としての彼のソウル在任期間は1931年から翌31年までの2年間であり、上記の1926年を含むそれ以前の7年間はどうやら日本に居たらしい。英国外務省極東部の職員には違いないが、「在韓副領事」とする記述とは明らかに齟齬がある。また、彼はAJの1931年号に"Some Climbs In KOREA"と題する文章を寄稿し、南面から撮影した美しい"INSUPON”ピークの写真をわざわざ添付しているにもかかわらず、その初登頂に関する記述は一切存在しない。当時既に、隣接する白雲台(863m)には鉄杭と削岩による遊歩道が拓かれていたため、それよりもやや低い仁寿峰(803m)の初登について敢えて記述する必要を感じなかったためかもしれないが、道峰山の万寿峰や五峰の登攀についての詳細な記述とは余りにも対照的である。文章全体の調子も、日本での7年間と韓国での2年間を振り返り、ソウル近郊での岩登りについて解説するという内容なので、比較的重要と思われる登攀の記述がないことには違和感を覚えざるを得ない。場合によっては、彼ら以前にそこを登った人物が存在した(1925年の米国人アンダーウッド博士という説もある。)か、或いは、初登頂の時期が異なっていた可能性も考えられる。アーチャーはその後神戸、東京、台北等の任地を転々とし、太平洋戦争開戦時の奉天領事を最後に極東を離れている。彼が書いたレポートは日本の植民地統治を検証する資料として多くの学術論文に引用されている。
 
 このように、彼が何も書き残していないため、初登頂の時期の推定は彼らが頂上に残した名刺を発見した人物の記憶に委ねられることになった。発見者は後述するように日本人飯山達雄である。戦前のAJには日本人による寄稿も多く、AJ1978年号の記述も戦前の日本からの情報を基にしたと考えられるが、その原典がどのようなものであったのかは判然としない。また、残念ながら、当時の記録の多くは戦災で失われ、戦後の政治情勢から当事者達の発言も断片的なものとならざるを得なかったため不明な点が多く残ることになった。はるか後年の回想に記憶の混乱がみられるのはやむを得ないことだろう。

 飯山達雄(1904‐1993)は、戦後の満州からの引揚船を記録した写真家としても知られている。横浜で生まれ、6歳の時に家族とともに朝鮮半島に渡った。1927年より朝鮮総督府鉄道局に勤務。1931年の朝鮮山岳会設立に参画し、在朝鮮日本人登山者の先駆的存在となった。丁度、台湾山岳会を創設した沼井鉄太郎(1896‐1959)のような存在だが、沼井とは異なり、戦後の韓国では必ずしも正当な評価を受けていない。小川登喜男(1908‐1949)ら東京帝大山岳部は外金剛集仙峰に遠征した際、飯山らの朝鮮山岳会から資料提供等の支援を受けている。訪朝初日には京城(現在のソウル。以下同じ。)市内に同山岳会事務所を表敬訪問し、『東京帝大山岳部・部報1932』には飯山らに対する謝辞を掲げている。また、飯山は太平洋戦争中には海軍省の嘱託としてボルネオ島の探検に携わり、戦後は南米大陸におけるモンゴロイドの生活文化の撮影をライフワークとした。

 1925年に京城に移り住んだ飯山は、週末毎に市街北方の岩峰群を歩くようになる。北漢山や道峰山の峰々は当時、「神々の御座」と畏れられ、山麓の僧坊に暮らす僧侶を除いて付近を行き交う人も疎らだったという。翌年の春、飯山は道峰山紫雲峰頂上付近の岩場で一人の青年と出会う。青年は「林茂」と名乗った。岩登りへの志向を共有する彼らは直ぐに意気投合し、毎晩のように飯山の自宅で語り合い、週末毎に道峰山の岩場で訓練を重ねるようになる。飯山はかねてから仁寿峰登頂の可能性を探っていたが、林は飯山に前年秋に英国領事館のアーチャーという人物とともに仁寿峰を登ったという事実を告げる。しかしながらその登攀は竹竿の先端に付けた鋼鉄製のフックを多用する人工登攀であった。ジョージ・D・アブラハム(1871-1965)の著書を通じて英国流のフリークライミングを信奉していた飯山は、可能な限り人工的補助手段に頼らずに再登することを目指す。1926年8月、林とともに白雲台とのコルから始まるルートに取り付いた飯山は、ほぼ所期の目的を果たして仁寿峰の頂に立った。この時、頂上にある巨石の上に積まれたケルンの下から林が取り出して見せたのが件の名刺であり、そこには、アーチャーと林の名が記されていたという。

 以上が飯山達雄編『写真集・北朝鮮の山』(国書刊行会・1995年)に記された名刺発見までの経緯であるが、この記述が正しければ、仁寿峰初登頂は1925年10月頃ということになる。更にこの翌週、彼らは現在の仁寿Aルートと思われる東面のルートをピトンを一切使わずに初登している。当時の英国は長く続くVS(5.8前後)の時代であり、米国に5.8を上回るルートが出現するのは戦後になってからである。このルートが仮に現在の仁寿Aルート(5.8)であったとすれば、当時としては世界最高水準の登攀だったことになる。

 最後に、林茂について。飯山は林と初めて会った時、言葉の発音から彼が朝鮮人であることを知ったと記していることから、当時の林が韓国語読みの「イム・ム」ではなく、「ハヤシ・シゲル」と名乗っていたことはほぼ間違いない。また、アーチャーも上記AJの記事の中で京城には「ハヤシ」という名の日本人のパイオニアがいることを紹介している。日本統治時代の韓国において、彼が何故日本人名を名乗っていたのかは分からない。創氏改名の法制化は敗戦間際の昭和19年になってからである。「岩と雪」47号には「日本人母系の混血韓国人」、CJ19号には「日本人の養子」との記述があるが、これらの記述の裏付けとなる資料を見つけることはできなかった。初期の飯山の山行記録には同行者として林の名が多く見られるが、1929年1月の内金剛毘盧峰の凍傷事故前後を境にそれも見られなくなる。何らかの理由で登攀の世界から離れていったのかもしれない。また、彼のその後の消息も分からない。韓国語の文献であれば、何らかの資料があるかもしれない。

 ただし、わずかながら、彼のその後の消息をうかがわせる資料も存在する。飯山の自伝『バガボンド12万キロ』(冨山房・1962年)には、敗戦後の混乱の中で米軍憲兵の拘置所から逃走した飯山をかくまい、日本への引揚げの手助けするH君という韓国人医師が登場する。本文には、かつて彼とともに金剛山や白頭山を登った「親友」とだけ記されている。1941年12月に行われた白頭山登山隊のメンバーにインターンの医学生として「方炫」という人物の名があり、H君はこの人物だった可能性もあるが、「方」の韓国語読みは「パン」で、頭文字はHではない。勝手な想像だが、H君はHAYASHI君であったのではないかと思われてならない。

 同じ時期に同じルートを登ったとしても、その人物の置かれた環境次第で、その時その瞬間に抱く感情や、はるか後年になってから回想する風景の色調も全く違ったものになる。1920年代後半のソウル近郊での登攀はそれらの端的な例といえるかもしれない。仁寿峰西壁の下降ルートを下る際、間近に見える仁寿Cルートの意外な急峻さを眺めながら、様々なことを思った。
by tagai3 | 2012-06-03 23:22 | クライミング | Comments(0)
<< 裾野と質 韓国 >>

岩登りについての所感

by tagai3