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漂石彷徨



修験道との親和性について

神道が現在のような形で体系化されたのは江戸時代の後期であって、皇紀2,672年などと言われると途端に胡散臭くなる。アニミズムは人間の原初的な感情で、あらゆる宗教観の基底にあるものなのだから、余計な装飾などを加えずに、そのまま胸を張っていればいいのにといつも思う。
タイトルは忘れたが古典落語に修験道に凝って家業をおろそかにする長屋の住人が出てくる。お伊勢参りに代表されるように江戸期は空前の旅行ブームだったらしいので、その時代に山川を跋渉していた修験者の中にも、あの長屋の住人のような趣味的な修験者は決して少なくなかったに違いない。こうした人々を山々に駆り立てたものは、宗教的な情熱というよりも、むしろ単純に「登りたいから」という理由だったのではないだろうか。もし仮に時空を越えて彼らと語り合う機会を持てたなら、きっと彼らは「あの美しいクラックを辿って、てっぺんに立ちたい」という単純な欲求を理解してくれるのではないかと思う。美しい自然を清浄な状態に保ちたいという感性と、美しいラインを登ってみたいという感性は、実は同じ根っこを持ち、違うのはアプローチの仕方だけのような気もする。
ただ、アプローチの仕方が異なれば、実際の行動が大きく変ってくるのは仕方のないことだ。あるルートを登りたいという動機は同じでも、そのスタイルが大きく異なることがあるように。例えば、ある美しいラインを最小限のボルトで登ったにもかかわらず、再登者がボルトを打ち足して登ったりしたら、誰だって怒り狂うのは当然だろう。ましてや何世代もの人々が拝んできた対象ともなれば、ある種の「念」のようなものが蓄積している筈なので、それらに対するなにがしかの敬意をはらって然るべきだったと思う。「武士道」を語るよう人なら尚更、古いお寺のお堂から快慶の仏像を盗み出し、外国の美術コレクターに売り払うようなまねをしてはいけない。
また、「見て!見て!僕を見て!ねぇ、凄いでしょう?」的なメンタリティが見え隠れしているのも気になった。商業主義の弊害ではないが、どこかで彼らを教唆し、扇動した者がいたのではないだろうか。あそこだと、人目に付かないことはちょっと考えられないから。
by tagai3 | 2012-07-18 23:11 | クライミング | Comments(0)
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岩登りについての所感

by tagai3