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漂石彷徨



印象に残ったルートの雑感

【Hen Cloud】
Central Climb(VS 4c)
「ハードグリット」の寸劇では、古風なスーツに身を固め、パイプを咥えた英国紳士が登っている。Hen Cloud正面の一番高いところを目指して、壁の中央を登る非常に美しいライン。レイバック交じりのクラック登攀となるが、随所にワイド系の動きが出てくるのでグレードよりも悪く感じる。つるつるに磨かれたホールドに歴史を感じる。ロープの流れに配慮して14m、14m、10mの3ピッチで登った。トポどおりである。
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Delstree(HVS 5a)
出だしの大きなブロックは苔でみどり色をしている。シンクラックをトラバースして外傾したバンドに立ち込む辺りが結構悪い。ここから左側の凹角に走るクラックを登る。薄く被っているが、スタンスは豊富でハンドジャムもよくきまる。最後の乗り越し部分では、ホールドが乏しくクラックも広くなるので結構緊張した。
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【Roaches Upper】
The Sloth(HVS 5a)
駐車場からでも確認できる大きなルーフを越える。Pedestralが派生する真下のバンドから見上げると庇はかなり迫力があり、5.9とはちょっと信じられない。おまけに少し湿っていて苔の緑がやけに鮮やかである。本当に人気ルートなのだろうか。思い切ってルーフに突入すると下からは見えない大きなフレークを掴むことができた。核心部はルーフよりも抜け口だろう。
ダグ・スコットの写真集「ヒマラヤン・クライマー」には真横から撮った写真が出ている。ドン・ウィランスが1954年に初登した時のプロテクションは、ルーフ基部のブロックに通したスリングだけだったという。このスリングも今はなく、色あせた切れ端がクラックの奥から僅かにのぞいているだけである。ウィランスと相棒のジョー・ブラウンは、登る順番をコイン・トスで決めたそうだ。
ウィランスは、1933年に生まれ、1985年に52歳でなくなっている。一説には、その代名詞ともいわれる多量の飲酒が彼の健康を害した結果だとも言われている。死の前年まで毎年のようにヒマラヤに遠征し、後の英国クライマーに多大なる影響を与えた。日本ではウィランス型のシット・ハーネスで有名なのかもしれない。
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【Roaches Lower】
Elegy(E2 5c)
 正面右側の凹角を登りハングを越えた後、バンドから左のスラブに移る。バルジの膨らみで腰が壁から離されるため、足に力を伝えにくくバランスが悪い。不安定な体勢のまま左に2、3歩トラバースして指3本程の大きさのポケットに手を伸ばすが、ここには厚い苔が生えていた。ここから身体を起こしてようやく顕著なフレークをつかむことができた。フレークは上部で浅くなり、そのままスラブに消える。後半4~5mはプロテクションが取れないので、フレークに4つもカムを設置する。スラブは最初のうちこそ大きな節理に立っていられるが、最後の2、3歩はとても微妙な動きを強いられた。フレークと対になった左上の皺は全く役に立たない。バンドに手が届いた時は、正直、助かったと思った。E2・5cをデシマルに換算してもせいぜい5.10d程度である。ボルトがあればなんでもないムーブだったのかもしれない。また、グリット独特のフリクションで恐怖感が増幅されただけなのかもしれない。そうはいうものの、個人的には心底怖かったし、かなり貴重な体験ができたことは確かだ。トポにはウエスタン・グリット最高のスラブルートと紹介されているが、まさにその通りだと思う。
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【Stanage Popular】
Flying Buttress Direct(HVS 5b)
5mほどスラブを登った後、大きなルーフに取り付く。庇の付け根の水平クラックからリップまでが意外に遠い。庇のリップを取ったら、丸いバンドをやや左にトラバースし、右足でヒールフックを懸けなければいけないのだが、何故か執拗に右に抜けようとしてしまった。完全な庇なので方向感覚が狂ってしまったようだ。一旦下がってジャムでレストし、周囲を見渡して始めて正しい方向に気がついた。動作そのものは5.10a程度だが独特の面白さがあった。
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Kirkuss Corner(E1 5b)
スラブ正面右のカンテからハングを越えて、フライング・バットレス・ダイレクト右側の浅い凹角を登る。惜しむらくは、右側の斜面からハングの上に手が届いて下部が割愛できてしまうことだ。ただし、上部の凹角ではプロテクションが取れないので、落ちれば間違いなく斜面に叩き付けられるだろう。実質的にはフリーソロである。地衣類が表面をうっすらと覆ってやや緊張するが、動作自体はそれ程悪くない。
このルートは、コリン・カーカスによって1934年に初登された後、ジョー・ブラウン等がトップ・ロープで登るまで19年間再登を許さなかったといわれている。第二次世界大戦による長い中断を差し引いたとしても、あまりにも長い期間であるが、鋲靴か粗末なゴム底の靴しかなかった時代に、ろくにプロテクションが取れないこのルートを登ったことは確かに驚異的だ。カーカスはこの前年、インド・ヒマラヤに遠征し、戦前のヒマラヤで行われた最も困難な登攀のひとつとされるバギラティ3峰(6454m)の初登頂に成功している。彼はこのルートを登った年の冬、事故による負傷によって困難な登攀からの離脱を余儀なくされ、1940年空軍に志願してドイツ爆撃に出撃したまま帰らなかった。享年30歳。彼の著書「さあ、クライミングに行こう」は彼の死の翌年に出版された。後年、16歳のジョー・ブラウンが独学でクライミングを始めた時、マンチェスターの図書館で最初に手に取ったのがこの本だったという。ベン・ムーンのビデオ「ワン・サマー」でも引用の字幕があり、英語圏では年代を問わず幅広く読まれているようだ。1987年に邦訳がでている。
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【Stanage High Neb】
High Neb Buttress(VS 4c)
下から見るとホールドは大きく、階段状で傾斜も無いため、非常に簡単そうに見えるが、実際に取り付いてみると、ホールドは全て丸く外傾しており、深く掴めるものはほとんど無い。また、無数に走る水平クラックはいずれも浅く、小さいサイズのカムでもプロテクションが取りづらい。思うに、つい最近までここを登るためには、初登時と同様にフリーソロに近いスタイルが採られていたに違いない。スラブ的な動きでジリジリと高度を上げるにつれて、緊張感も高まってくる。極めて良いルートである。
初登は1916年、当時19歳のノルウェー人、イバール・ベリによってなされた。彼の英国滞在期間はわずか2年間であったが、英国人クライマーのハリー・ケリー等と共に、数多くのルートを登っており、そのうちの幾つかにはフリーソロによる5.10台の初登攀も含まれている。
もしボルトが埋められていたとしたら、何の変哲も無い陳腐なルートに成り下がっていたに違いない。ボルトが無いことによって90年後に登る我々も初登時と同様に豊かな気持ちになれる。
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【Higgar Tor】
The Rasp(E2 5b)
Higgar Torは、Burbage渓谷の西の端、崖の突端がやや盛り上がった船の舳先のような形をしており、とても見栄えが良い。そのためスタネージのようなEdge(崖)ではなく、Tor(頂の尖った岩場)と呼ばれている。見晴らしが良いのでハイカーも多い。トポには岩場の基部を巻く道と、岩場の上から回り込む道が記載されて、始め基部の道を辿ったが、細かなアップダウンが多く歩きづらいので上の道を辿る方がよい。事前に終了点を作りに行くが、裏の5m程の段差を運動靴で登るのは少し怖かった。
このルートは非常に被っているものの、節理がはっきりしているので、ジャムがよく決まり、カムを使えばプロテクションも取りやすい。ムーブだけならまるで人工壁のような非常に爽快な登攀を味わうことができる。
初登攀は1956年ジョー・ブラウン。ランナーとしてのプロテクションは、14m中、スリングでとった2箇所だけだったという。例によって相棒のウィランスと順番に試登を繰り返し、最終的には彼が最初に登った。ウィランスは、ランナーを取るのに手間取って腕が張り、初登攀を彼に奪われたことを後々まで根に持った。これがやがて彼等が袂を分かつきっかけになったとも言われている。
ジョー・ブラウンは1930年生まれで、現在もご存命である。1954年にウィランスと共に英国人パーティーとしては初めてアルプスのⅥ級ルートを登り当時英国最強のペアと称えられた。1955年、世界第3位の高峰カンチェンジュンガの遠征に参加し、ジョージ・バンドと共に同峰の初登頂に成功する。酸素吸入器の流量を高めて核心のクラックをリードした話は英語圏では有名なようだ。1976年にはトランゴ・ネームレス・タワーに初登頂している。ロイヤル・ロビンスの『クリーン・クライミング入門』によれば、ハンドジャムは英国の偉大なるクライマー、ジョー・ブラウンによって開発されたと紹介されている。これについては、ピーター・ハーディングのルートにハンドジャムを多様するものがあることや、カーカスの著書にもハンドジャムの記述があることなどから、鵜呑みにすることはできないが、彼の時代に技術的に確立したものになったことは間違いない。
RASPを登った当時は、毎年のようにヒマラヤに出かけていたはずであり、その一方で、同じ時期にピーク・ディストリクトで無尽蔵ともいえる数のルートを初登している。そのエネルギーにはただただ感嘆するばかりである。
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【Froggatt Edge】
Strapadictomy(E5 6b)
「ハードグリット」の寸劇では、70年代風のモミアゲをしたおニイちゃんが、腰を振り振り胸の肌けたシャツとピチピチズボンのディスコ・ファッションに着替えた後、するすると登った岩の上で映画「サタデー・ナイト・フィーバー」のポーズを決める印象的なシーンが展開されている。
ルートは9mと非常に短く、トポにもプロテクションが取りやすいと書かれているが、下から見上げた時の最初の懸念は、左下のクラックから右手のフレークまで手が届くだろうかというものだった。「ハードグリット」のおニイちゃんは実はとてもデカイ人物だったのだ。とりあえず取り付いてみるが、案の定、身長170cmに満たない私には彼と同様のムーブが到底できそうもないことが分かった。しかしながら、フレークに至るハングの下には様々な節理があったので、色々試した結果フレーク状のクリンプを使ってヒールフックの懸け替えを行い右手のシンハンドから左手でレイバックの姿勢に移るムーブを発見した。ただし時既に遅く前腕が張ってしまったので、2便目を出さずに初日は敗退せざるを得なかった。
翌日どうしても気になり、予定していたブラック・ロックスを諦めて再びフロガットに向かった。1便目で思い通りに身体が動き、順調にレイバックの体勢に入った迄は良かったが、右のスラブに移る際左足が滑って右腕の前腕に大きな擦り傷を作ってしまう。必死にしがみついて窪みに足を上げ、なんとか落ちずに登りきることができた。(ちなみに「ハードグリット」のムーブでは、レイバックから、私とは逆の左方向に抜けている。)1手目のボルダー的な動きから、最後のスラブに至るまで、グリット特有のムーブが凝縮した非常に素晴らしいルートである。身近で常に触れる英国人が羨ましい。
このルートの初登攀は1976年、当時15歳のジョン・アレンによってなされた。彼は、70年代後半から80年代前半にかけて、スティーブ・バンクロフトと共に数々のルートを初登している。ボルダラーにも馴染み深いスタネージ・プランテーションの有名なボルダー課題“Not to Be Taken Away”も彼の課題である。少しだけ意外だったのは、彼がジェリー・モファット(1963年生まれ)やジョニー・ドウズ(1964年)とさほど年が違わないということだ。同時期に活躍したロン・フォーセットはずっと年長(1955年生まれ)だから、いかに彼が早熟であったかが分かる。10代の躍進はなにも最近に始まったことではない。
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【Cratcliffe Tor】
Suicide Wall(HVS 5a)
鬱蒼とした森に囲まれたクラットクリフの南面は昼でも薄暗い。蒼々とした苔で覆われた壁の様子からは、高い湿気と風通しの悪さが窺えた。取り付きは南面の右端に位置している。積み重なった大きなブロックの隙間に立つと、まるで井戸の底に居るような気分になる。見上げて左側のクラックの隙間には巨木が根をはっていて、暗がりに慣れた目には薄緑色の木洩れ日がやけに眩しい。湿った樹皮の木登りを避けて右側のブロックからやや広めのクラックに入る。見た目よりも悪いが、クラックの外縁に適度なスタンスが拾える。The Bower(木陰)と呼ばれるテラスには、その名のとおりの立派な木があるが、テラス自体は外傾していて安定しておらず、ルートの上部を窺うためには右端のハンドクラックから身を乗り出さなければならない。広めの水平クラックを3m右にトラバースした後、シンクラックのクリンプを使って左上する。小さなバンドから左に開いた広いフレーク状のワイドクラックをレイバックで登った後、終了点直下の小ハングでマントルを返し、最後は岩峰の頂に抜ける。
多彩なムーブ、攻撃的であると同時に合理的に弱点を繋いだ絶妙なライン、30mのスケール。これほど素晴らしいルートにはこれまで出会ったことがない。
「ハードグリット」の寸劇の中では、飛行帽のようなものを被った若い女性が軽快に登り、メガネをかけたフォローの男性と頂でキスをする。この女性のモデルは、おそらくベロニカ・リーだろう。自転車でアプローチする様子は、当時のダービシャーで最も人気のあったレジャーがサイクリングだったこととも符合している。このルートの初登は、第二次世界大戦の欧州戦線終結から1年にも満たない1946年5月、ピーター・ハーディングと彼のガールフレンド、ベロニカ・リーによるものである。
その日、ビンセントのサイドカーにベロニカを乗せてやってきたピーターは、それまでに何度か試登していたラインを辿って遂に頂上に立った。彼はこのラインに当時最高水準のHVS以上の難しさを感じ、Exceptionally Severe(とりわけ難しい)のグレードを与えた。このグレードはやがて使われなくなったが、後のE(Extremely Severe)グレード導入の契機となるものであった。
ハーディングは戦時中ロールス・ロイスの航空エンジン部門で製図技師として働き、多忙な仕事のあい間を縫ってダービーの自宅に近いブラック・ロックスやクラットクリフで当時最高水準のルートを数多く登った。
しかし、彼のクライマーとしての活動期間は5年余りと極めて短い。仕事の都合でウェールズに移住した後は、ホランベリスのトポの編纂に携わったりするものの、次第にモータースポーツや仕事に関心が移り、クライミングからは離れて行く。1952年にはリタという女性と職場結婚しているので、ベロニカとは既に別れていたようだ。彼は非常に長命で、2007年に82歳で亡くなっている。偶然にも米国のウォレン・ハーディングと同じ1924年の生まれである。晩年は山歩きや易しいクライミングを再開し、山岳団体が主催する講演等にも度々応じていたという。詳細な経歴が残ったのはそのためだ。
彼はヒマラヤには行かなかった。また、後年のブラウンやウィランスのような伝説も残さなかった。けれども彼の経歴からは戦後の「普通の人」の人生が垣間見られ、何故か非常に心惹かれる。
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by tagai3 | 2008-09-07 17:37 | クライミング | Comments(0)
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岩登りについての所感

by tagai3